私は食事のお礼を言って、帰るつもりでした。翌日は、ギャラリーの受付のバイトがあったし、何より門限が12時だったので。

お店を出るタイミングになって、彼は私を二軒目に誘いました。

サザンのバーがあるから行こうよ。

私は、もう帰らないと間に合わない、と伝えました。

俺、明日、仕事休みもらったんだ。あんたといるために。俺のために、門限破ってよ。

私は正直、もうキャパオーバーでした。嬉しいけど、そんなにすぐいいわよ、と言えない。そう言えば良かったんです、彼に。

だけど私は、彼の存在が心臓に悪すぎて、嬉しいの一言も言えませんでした。もう彼の顔も見れなくて、ただ、ごめんなさいとしか、言えなかった。

本当に箱入りなんだ。そんなんじゃ、いい虫も悪い虫もつかねえな。

彼はため息をついて、わかったよ、と言いました。彼は、駅まで送るよ、と言って、ホームで一緒に電車を待ってくれました。

そのとき、例の話をしたんです。

あんたは今、真っ白いキャンバスかもしれないけど、これから生きていったら、どうせ色はつくよ。親が守るったって、そんなの無理だ。

だったら、どうせ染まるんなら、綺麗な色に染まれよ。

私は何も言えませんでした。門限もそうでしたが、私はあの頃、まだ本当にいろいろ、ルールに縛られていました。自分の判断に自信がなかったから。だから、付き合ってもないのに、とか、余計なことを考えて、うなずくことができませんでした。

ホームは人気がなくて、私達以外見えませんでしたが、ふいに向こうから人が歩いて来ました。私達はベンチに座っていて、彼は脚を組んでいたんですが、彼は脚が長いから、その人はちょっと避けるように、横を通って行きました。それで、私はとっさに、

だめよ、と彼の膝を牽制してしまいました。

そのとき彼は、最初で最後でしたが、初めて私に、違う顔を見せました。

私が急に、彼に触れたせいだったかもしれませんが、彼は、息を飲むような、どこか少年のような、まぶしそうな顔をしました。

この人も、こんな顔をするんだ。

私はあの表情が、今でも忘れられません。そして、あんな表情もできる男だと知っていたら、もっと一緒にいたかったのに。

あの頃の私が、素で彼に接することができたのは、あの一瞬、ただのあの一瞬だけでした。