は〜い!

 

皆さんこんにちは!

 

鈴木教禅で〜す!

 

 

 般若心経と般若理趣経(はんにゃりしゅうきょう)

 

今回の話は題名を見ますとかなり難しい感じかしますが、実は難しいです!

 

と言っても私なりに簡単に書いていきます、鈴木教禅流の般若心経と般若理趣経として読んでください。

 

高野山の南院内海住職から僧名として「教禅」と言うありがたい名前を頂きながら、仏教のお教えのブログを上げなければと感じ今回書く事にしました。

 

小さい頃から仏教が好きで学んでいた中で、「般若心経」の中にある「色即是空・空即是色」が心に残り、何か辛い思いや逃げたくなる時によく唱えていた事を思い出せれます。

 

「色即是空・空即是色」は私の解釈で、形(物)あるものは全て無くなり、何も無いところから形(物)が生まれる。

 

物を壊してしまったり、物を無くしてしまったりして困った時にはこの「色即是空・空即是色」を思い出したものです。

 

長年に渡り仏教のお教えと実践においてさまざまな結果と社会貢献が認められ、直接の縁は無かったのですがある人からの縁で高野山の南院御住職に僧名を頂き、宿坊に泊まった時に霊感のある私は「空海」さんと霊的に話をしました。

 

話をしたと言うよりも、私の一方的な愚痴ばかりを聞いてもらったと言う感じでした。

 

 

私も僧名を頂いた時は40代後半でしたので、これからは、今までの経験を活かし生活も安定し苦労なく過ごしていける!

 

そんな事が頭の中にありました。

 

「ありました」と言う事はお察しの通りその後は大変な事を連続が続きました。

 

20代の時に神仏とお約束をしまして、神仏には逆らわない事にしたのです。

 

神仏は「命令」と言う感じではなく、「このようにしたらどうですか?」みたいな、優しい命令?

 

それじゃ命令じゃん!

 

と言われそうですが、なんせお約束をしたものですから、こうしたらどうでしょう?と問いかけながらやれる事はやりますし、やれそうも無い事もやります。

 

初めは父親が他界しまして、大断捨離をする事になりました。

 

家を無くし財産全てを無くしました。

 

その時も空海さんは私の枕元に立ってこう言ったのです。

 

「般若心経と般若理趣経を知っていますか?」

 

「般若心経は空(無)であり」「般若理趣経は不空(不無)である」

 

私はそこでよくその意味を見る事にしました。

 

そうか自分は何かになろうとか、なんとかしようとか、いろんな思いや感情が出ていました、それを「無」にする事が重要なのだと見てみました。

 

しかし、何度も教禅ですから禅をして「無」になろうしても、自然とやな思いやどうにかしなくてはと苦しみが出てくる毎日でした。

 

そして、空であり空では無いと言う事に着目しました。

 

いくら空とか無と意識しても現実的に肉体がありその肉体の記憶を消す事など出来ません、また、現実的にやな事も現れる状態でしたのでのですぐに空で無くなります。

 

そんな時に、「なろうとしない、なからんとしない」と言う言葉が自然と出てきました。

 

意味は、何か良くなろうとか、生きて行こうとか、他界しようとか、もうすべて投げ出そうとか何もしない、しかし、何もしない事はないと言う事。

 

そして、「なろうとしない、なからんとしない」を唱えていると背筋が伸びで自然と楽になったのです。

 

般若理趣経を知らない方はこちらをご覧ください詳しく書いてあります

 

 

 

その後も「般若心経と般若理趣経」の追及は続きました。

 

無になる空になると言う事で、いらない意識を消すことにしました。

 

空海さんが崖から身を投げた時も、もし私の行いが間違っていないならば仏が守ってくれるだろうと思ったそうです。

 

無論、崖から身を投げても命には別条はなかったそうです。

 

私は身を投げるような事はしませんが、無になる空になると言う事は、自分の生きて来ました「カテゴリー」と言うか固定概念を消す事になります。

 

大断捨離もかなりきつい物でありましたが、生きる概念を消すと言うことは、どの様に生きて行けば良いのかも一時期出来なくなる状態であります。

 

しかし、これは神仏の約束ではありませんが、不のエネルギー(恨み怨念嫉妬重い考え)をまず消す事をしまして、権力の意識やどうにかしよううと言う意識など、一度帰依していますので思い出せない事も多く消しました。

 

そして、カタカムナを唱えていましたら、魂と肉体が離れてしまった時に、一時期霊感が無くなり氣も分からなくなったのですが、その後魂と肉体の意識と両方感じる事が出来ました。

 

またさらにそから「無」「空」の世界を見直す事になったのです。

 

無になる空になると言う意識も消す、意識も消して何か自然とイメージする事も消す。

 

本当の無は本当に一瞬出来る感じであります。

 

これは、肉体の意識があると出来なく、魂だけの意識に集中すると出来る状態です。

 

一瞬にして何も無くなり、一瞬にして何もかもが現れる。

 

意識もイメージもエネルギーも何も無くなった時に、意識もイメージもエネルギーも出てくる。

 

この事を繰り返し行なっていると、すべての調和が取れてくる感じである。

 

魂レベルでこれは行なっていますが、それを肉体レベルを見てみると、肉体レベルは魂レベルに比べ時間がかかりますが少しずつ変化しはじめます。

 

宇宙の根源に意識を向けて無の状態に行き、今の何兆個何京個になるか分かりませんがそれくらいの魂や細胞が生まれ、その何兆個か何京個の一つの肉体と魂が今自分としてここに現れる、そして、その宇宙全体の魂や物質との関わり合いが何と無く感じられる。

 

宇宙の根源である「空(無)」から「不空(無空)」が現れる状態っていうのはとてもないエネルギーである事は間違ありません。

 

その分散れた何兆個何京個のエネルギーが今ここにあるのです。

 

「般若心経と般若理趣経」を私は解いてみた結果です。