は〜い!

 

皆様こんにちは!

 

鈴木教禅で〜す!

 

 

 

今日は「禅」の話をします。

 

私が高野山の南院住職から僧名として名前を頂きました「教禅」の禅です。

 

何気なく毎日いろんな神様や霊体・生霊などとチャネリン(リーディング)行う為に禅(瞑想)をしています。

 

一般的に禅宗の方が禅を行いますが、私の場合は自己流というか神様や仏様流というか、自分を見る手段として行っています。

 

最近では、社会も大きく変わりつつあり、YouTubeを見ていますとスピリチュアルな話や精神的な話が多く見られます。

 

実際に私がその世界にいますので、そういった精神的な動画を見てしまうのかも知れません。

 

アメリカではUFOの話をしてみたり、異星人から政府は技術を教えてもらい、経済発展していた話などいろんな情報があります。

 

また、これは常にどんな時でも入ってくる情報ですが、「地球滅亡説」や「人類滅亡説」ですね。

 

人は、陰陽五行説の中にあります、内臓の感情の中で膀胱と腎臓が恐怖を生み出しています。

 

内臓の腎臓と膀胱を活性化する為には「恐怖」を感じることが重要ですので、目に見えない事に恐怖したり、未来に対して恐怖をするのは人の自然な事なのです。

 

どんなに高度な技術を教えてもらっても人の心が間違っていたら、とても良い技術でも悪いように使われてしまいますので、この時代はより自分の心を知る事であり、間違った心の改善をする事が重要となります。

 

私は神様との会話でそんな話をしますが、今高度な技術を人々に教えている存在というのは、詳しくは分かりませんが、心の改善の方法を教えるのが先で順序が逆な様な気がします。

 

高度な技術などは、神様との会話でも聞いていますし、現在でも開発はこの地球でも行われている様ですが、心の問題があり出さないようです。

 

以前にもブログに書きましたが、「今の医療で治らない病気は無い」と断言した病院の先生がいました。

 

しかし、病気は治す事が出来たとしても、心の病は治す事が出来ない。

 

私は大学時代から「臨床心理学」を学び、30年以上心の問題と解決方法に取り組んできました。

 

 

もう5年くらい前になるでしょうか、高野山に教禅の名前をもらいに行った時に空海の霊とお会いしました、それから、ずっと私と対話をして頂き常に私の愚痴を聞いてくださっています。

 

そんな中、般若心経の真髄である「無ある」という事に注目しまして、空海さん(霊体の空海さん)と「無」に対して聞いていました。

 

私も仏教の勉強は小さい頃からしていましたので40年以上学んでいました、ですので、50歳になって「無」の概念は知っているのは当然です。

 

しかし、「無」とは何ぞや

 

という疑問は常にありました、そして何よりその無を実践に活かすのには?

 

===心をクリアーにする事で頭が空っぽになり楽になる。===

 

ん!それが答え?これで終わり?

 

座禅を組んで目をつぶり自分を見る、そうするといろんな想いやイメージが自然と湧いてくる。

 

心の中では「こんなことやったって何も変わりやしない」などネガティブな事も出てくる場合もある。

 

それでも、やな事があったり疲れたりする事があると、ちょっと禅(瞑想)をして心を落ち着かせるとなんとなくスッキリした感がある。

 

そんな私が無を意識して体験した事や今感じている事を空海さんと対話をしていました。

 

「無」って言うと何も無い事であります。

 

肉体もない!

 

物体もない!

 

意識もない!

 

存在すらもない!

 

想像することもない!

 

そうなると無の状態もない!

 

何も無いのが「無」の状態であれば、「生きている」と言う事に疑問が生まれる。

 

言い換えれば、無というのは心の中の無であり、肉体や物質が無くなるのでは無いとも解釈ができますね。

 

鈴木教禅はそれでも理屈っぽく、変わった人間ですのでこう言い返す。

 

心だけを無にする事であるとすれば、心と身体は表裏一体であります、心が無にする事で肉体も無になりクリアーになると言う事になる。

 

それは、心と身体が同時に無になる事になるのでないか?

 

整体の仕事をしていますと「陰陽五行説」では、内臓の改善をする事で感情の改善にも繋がります。

 

肉体の疲れなど酸化が進んでいるので、アルカリ性に戻してあげれば疲れも取れる。

 

逆説を見れば、身体の改善が心の改善にもなるのです。

 

禅を行い無になることで、身体の痛む場所や悪い所がわかる場合があります。

 

人間の身体は病気を治す能力がありますので、身体に集中する事で病気の改善にも繋がるのです。

 

であるから、心だけを無にするだけでは効果がなく、物質体である肉体の意識も無にする必要があるのです。

 

肉体や物質の意識を無にする事で、人が余計な意識を使って病気を生んだり、不自然な社会を形成するのであります。

 

「無」とは全ての意識を無にしなければ、自然の法則が見えてこない!

 

そこで、何もかも無になれば、この肉体の存在もそうですが宇宙全体もない状態になります。

 

「まあ、そんな大袈裟な事ではなく禅(瞑想)の世界だけなので、実際の物理的な事が無くなるわけでは無いので考えすぎですよ教禅さん」と言われそうです。

 

無論、禅(瞑想)している時だけ自分の心の中を無にするだけで、気持ちが楽になれば良いと言われればそうです。

 

私も実際に身体を悪くして禅(瞑想)した結果、いろんな事が解決をしてきた経緯から、この「無」をもっと深く掘り下げてみる事にしました。

 

何も無い世界!

 

何も無いのだからそういった世界も存在する事が無い。

 

禅(瞑想)をしている時だけ何も無い世界を創り出せとしても、目を開けて現実を見れば禅(瞑想)を行う前と何にも変わらない、ひと時だけ疲れが取れてスッキリするだけである。

 

身体を悪くした私にとって、一時期だけ痛みが消えれば良いのではなく、身体の改善をする事が目的であった為心の中の問題も一緒でした。

 

本当に身も心も無の世界に行ってリセットされ、何もかも解決され痛みも苦しみもなく新しい自分に生まれ変わる!

 

そんな事を目標に禅を行い「無」の境地を目指しました。

 

何も無い世界!!!!!!

 

何も無い世界があれば、陰と陽の関係性から見ると、何もかもがある世界も存在する。

 

と言うことは?

 

何も無い世界を感じる事ができれば、何もかもがある世界を感じる事ができる。

 

それであれば、禅(瞑想)している時だけではなく、常に何も無い世界が意識できれば、何もかもが有る世界が現れてくる、言い換えれば、無を意識する事でイメージ通りの人生になる事になる。

 

では、どうすれば、常に無の世界を意識する事が出来るのか?

 

やり方とすれば、常に何も無い世界・何もかもある世界を言葉に出して唱えてみよう!

 

いやでもちょっとやってみると楽になったり何か変化はありましたが、「何も無い世界・何もかもある世界」言いずらい事がネックでした。

 

そこで私なりに言いやすく「ナロウトシナイ」「ナカラントシナイ」でした。

 

意味は、普段人は生きる事をしています、生きる為にいろんな行動をしていると言っても良いかもしれません、その生きる為に何かをしようとか成ろうとしない、しかし、生きる為に何をしなければならないですし何かを成し遂げなければ生活が出来ません。

 

そこで逆に「そうでは無いのですよ」生きようとしないのでは無い、成し遂げようとしないのでは無い。

 

唱える事を変えてみますと、もっと身体が楽になり変化も大きくなりました。

 

唱える言葉は皆さんが言いやすく理解しやすい言葉に変えると良いですが、基本的は「この世の中は何も無い」しかし「この世の中は何でも有る」と心の中に刻み込む事で、何もかもが変わってきます。

 

将来、皆様と禅(瞑想)をしたいと夢見ています。

 

今回のブログを見まして、鈴木教禅流の禅を行って結果がでた方は良いのですが、上手くいかなった人は他に方法はあります。

 

禅をやっていて悪いイメージが消えない場合においては指導者が必要です。

 

きちんと禅を行っている人の悪いイメージを取り去る事が出来る人と行うと結果が出ます。

 

空海さんにはいつも愚痴や疑問を投げかけ、自問自答の中で答えを出しています。

 

きちんと話を聞いてくれる人がいると言うことは重要な事ですね。

 

長文になりましたが最後までご購読ありがとうございました。