は〜い!

 

皆さんこんにちは!

 

鈴木教禅で〜す!

 

無縄自縛(むじょうじばく)

 

今日はちょっと難しそうな話の様に見えますが、無縄自縛(むじょうじばく)をちょっと面白く書いています。

 

最後まで楽しくお読みください!

 

私は以前にも一休さんが好きだという事を書きました。

 

最近では、YouTubeで大人の一休の動画出ています。

 

実際の一休さんは子供の頃漫画ではりませんが、幼い時はトンチなどした事がないそうです。

 

そんな中大人の一休さんの話の中で、「クソとお経」の話がとてもユニークで面白いのでそれに合わせて「無縄自縛(むじょうじばく)」を見て行きます。

 

 

この話はYouTubeの動画で「臨済宗・大徳寺 一休さん」の話ですので、詳しくお知りになりたい方は下記のご覧ください。

 

 
クソとお経の話は、簡単に書きまして一休さんがしたクソをお経の上にのせまして、お弟子の皆さんのところに見せに来るという話である。
 
え!
 
そんな事あり得ないと感じる方が多いのではないでしょうか?
 
しかし、実際にあった話だそうです。
 
弟子も驚き一休和尚になんでこんな事を尋ねます。
 
そこで、一休和尚は「無縄自縛(むじょうじばく)」と言ったそうです。
 
無縄自縛(むじょうじばく)の意味は、常識、固定観念、古い情報などによって、本来であれば問題のない行動を、勝手にあきらめてしまっているような状態のことを指します。
 
その後、一休和尚は臨済宗の祖の話をします。
 
「人がありがたる経などトイレットペーパーと同じだ」と臨済は言ったそうです。
 
過去の人が人生経験や書物を読んで、また新たにお経をつくるそんな事からお経でも聖書でも出来上がっています。
 
無論、当時においてはとても貴重であり、重要な話であった事であります。
 
しかし、時が経つにつれいろんな状況が分かってきます。
 
歴史をみれば、だいたい同じような事を繰り返している場合もありますが、大きく変わっている場合もあります。
 
当時一休さんがお坊さんをしていた時は、結婚もしてはならない子供がいてはならないとかなり厳しい戒律がありましたが、今ではお坊さんも結婚もしますし子供もつくります。
 
お教えも変わっていくのですね。
 
また、同じようにお経を読んでも人によって解釈も違てきます。
 
私も実際に高野山の南院の内海住職から僧名として「教禅」の名前をもらいました。
 
実際に私自身高野山では修行はしていません、また、教禅という名前は「禅」と書いてありますが、高野山では「禅」とは言いません。
 
まあ神仏に認められたのだと私は理解しています。
 
「禅を行う事で人にお教えを広める」
 
こうやってブログに書いているのも、その修行の一つであると感じています。
 
自分を信じ自分に忠実に生きる。
 
言葉や文字では簡単ですが実際は大変難しい事です。
 
ん!
 
「難しいと言えば難しい、簡単と言えば簡単」そんな声が聞こえてきます。
 
恐れ入りましたm(_ _)m
 
何事にもとらわれない生き方、これからは、とても重要な時代になってきます。
 
自分自身が何にとらわれているのか?
 
私も実際にこうやってブログを書きながらも、自分が何にとらわれているかを観ながら書いています。
 
自分をみる。

 

 

無縄自縛(むじょうじばく)に引っかかっていないかを!

 

お陰様で現在は本当に自由に毎日好きなように生かさせてもらっています、しかし、皆様同様先への不安が出てきます。

 

知恵を使い無縄自縛(むじょうじばく)に引っかからない様に自由に仕事をする。

 

何は余計な事で、何が重要な事なのか?

 

自分しか分からない事!

 

また皆様に会えるのを楽しみにしています、最後までご購読有難うございました。