侘(わび、侘びとも)とは、動詞「わぶ」の名詞形で、その意味は、形容詞「わびしい」から容易に理解されるように「立派な状態に対する劣った状態」となる。転じては「粗末な様子」、あるいは「簡素な様子」を意味している。

寂(さび、寂びとも)は動詞「さぶ(錆ぶ・荒ぶ)」の名詞形で、本来は時間の経過によって劣化した様子を意味している。

「わび」「さび」は茶道における心境をあらわす言葉として大切にされています。

「わび」「さび」は、もともとは良い意味合いには使われていませんでしたが、鎌倉・室町時代になるとそういった言葉の中に人生のあり方を見いだし、美意識へと変化させて行きました。

「散っていく花に風情を感じる」

美と言えば、色鮮やかな絵であったり、自然の花・風景などがあります。

私も幼稚園児の頃から、「書道」をしていました、今はもうしていませんが、書道のこころはつかみたいと思っています。

白と黒のコントラストであります。

一本の墨の絵に、こころを奪われ美を感じました。

書いたその人のこころが美しいと、そんな一本の書でも泣けるくらい美しく感じる。

でも、今は見る事が出来ない、しかし、私の心の中にはしっかりと刻み込まれている。

作者は誰かは分からないが、この作者のようになりたいと思った。

その方が有名だとか有名でないとかは、私にとってはどうでも良い話である。

ただ、目の前にある美しい物を私は信じている、また、自分の美意識を信じている。

人生考えれば、わびしいことありますし、さびて風化しても行きます。

書道も「かすれ」を大事にします、言葉にはしにくい「かすれ」の美しきありかた。

こころからにじみ出る美しき事は、どんな時でも感じる事が出来ます。

日本も戦後何もなくなり、色も無く家族も無くした人もいるかも知れません。

そのわびしさと風化する(物が無くなっていく)様を見て、一服のお茶を飲み人がこころから美を感じ明日に向かう事が出来る。

人は、美しさが無ければ生きては行けません。

色のある美しさもとても良いですが、色の無い美しさもとても重要です。

形の無い物を美しいと思うこころ

裏千家では、棗を清める時に、ふくさをたたみ棗の甲の上を横にずらしながら清めます。
横にずらす時に、普通であれば棗を清めたら終わりですが、棗を清めた後も横にずらし、何も無い所も清めるようにふくさを横にずらし清めるのです。

裏千家のお手前では、そのこのように目に見えない物も大事にするように行ないます。

茶道具は、シンプルでとも奇麗で美しいと思います。

それより、ひとのこころ「一期一会」お茶を飲み干した後、お茶碗をながめます、これは、二度とこの茶碗にあう事が出来ないかもしれないという、「わびしさ」を表しているのです。

そして、人もそうですが年を取り、今まで出来ていたお手前も出来なくなり、風化していきます。

しかし、茶道を行なって美を感じた人達のこころ中には、永遠にわび・さびの中に「美」を見るのです。

そして、茶道を通してその何も無い所の「美」が受け継がれ、本当に欲も無く無理に美を手に入れようせずとも、本当の美しさは、貴方のこころの中にあるのですと教えてもらっているのです。