我が家の前の道路では、ときどきよその子どもらがボール遊びをします。

 

 

住宅街ではありますが、一応、県道です。

 

 

ときどき、親も一緒にボール遊びやバドミントンをしています。

 

 

車で帰宅するときにボール遊びをしていて困ることもあります。

 

 

ボールと一緒に子どもが飛び出してくるときもあります。

 

 

わたしの車にボールの跡がいっぱいついています。

 

 

そういう子どもの親がPTAや参観日には顔を出して、あっけらかんと他の親と和気あいあいと話をしているようです。

 

 

 

 

 

我が家は、家の前で子どもにボール遊びをさせたことはありません。

 

 

そういう教育をしているからです。

 

 

我が家の子どもはわかっています。

 

 

家や車に当たったらダメ。

 

 

車が来るから危ない。

 

 

しかし、ボール遊びを放置する親は、そういう教育をしていないようです。

 

 

聞きたい。

 

 

子どもが死んでもいいの?

 

 

そう思われても仕方がない話です。

 

 

 

 

 

 

その親は他人の子には厳しく、自分の子には甘いようです。

 

 

そしてその子がいる学年は荒れていて学級崩壊をしている。

 

 

しかし親たちは自分の子どもには問題はない、主張するそうです。

 

 

めんどうくさいんでしょうね。

 

 

責任を持つということが。

 

 

 

 

我が家では子どもを外で遊ばせるときは公園へ連れて行きます。

 

 

週末は晴れていればだいたい連れて行きます。

 

 

おそらくそういうことも、その親はしていません。

 

 

面倒なんでしょう。

 

 

 

 

 

 

Mr.Childrenの「マシンガンをぶっ放せ」という曲のフレーズ。

 

 

「良識を重んじてる善人がもはや罪だよ」

 

 

子どもに間違ったことをさせて、無責任に自分たちは正しいと主張する。

 

 

そういうことが世の中にまかり通っている。

 

 

だから、ルールを守り責任感がある人間、良識を重んじている善人のほうが、もはや罪なんだよ、と。

 

 

そう思えても仕方がない世の中かもしれません。

 

 

 

 

 

もちろん、自分が善人だなんて言いません。

 

 

ただ良識は持っているつもりです。

 

 

まあ良識を持って生きることが罪でも罰であっても人間は自分を変えることなんて簡単にはできません。

 

 

それは県道でボール遊びをさせる親も同じです。

 

 

 

 

 

 

Mr.Childrenの「名もなき詩」ではこんなフレーズがあります。

 

 

「自分らしさの檻の中でもがいてるなら誰だってそうなんだ」

 

 

結局はどんな不条理なことであっても受け入れなければいけません。

 

 

不条理とはあくまで自分にとって不条理なことだからです。

 

 

自分が何をどう感じるのかを変えることは、とても難しいことでしょう。

 

 

他人の好都合が自分の不条理であったりすることもあるからです。

 

 

「普通、こう考えるでしょ?」

 

 

それはあくまで自分にとっての普通です。

 

 

世の中に「普通」なんてものは存在しないのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

ま、人生色々ありますね

( 一一)

 

 

こういうときは酒でも飲みましょう

(*'▽')

 

 

・・・買うの忘れた

( ;∀;)

 

 

 

 

おしまいです。