田山花袋の『再び草の野に』 | さすらい人の徒然日記

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筑摩書房『現代日本文學全集』第62巻「田山花袋(二)」所収
「再び草の野に」について。


T川の南岸に出来た仮設の終端駅・KM駅。
川の北岸にあるT町のツツジを楽しむため、
東京からは多くの観光客が訪れるようになる。
そのにぎわいで一儲けしようと、
駅の周辺には様々な店ができ、
そこで働く人々が家屋を建て、
一帯は徐々に発展していく。
しかし、T川に鉄橋が架けられ、
線路が北岸へと延びたのを機に、
仮設の駅舎も北岸側へ移転。
駅のあった地域は急速に衰退し、再び草の野に…。


どのような物・出来事にも、始まりがあり終わりがある。
永遠なる繁栄発展などありえず、
いつかは衰退の時が訪れる。
人間はその盛衰の狭間の中、
様々な生き方をしているわけで、
この作品には、駅周辺の盛衰の中を
精一杯生きている人々の姿や愛憎の模様が描かれている。

イニシャル表記の名前が多数登場するこの小説、
T川は利根川、KM駅は川俣駅、
そしてT町は館林町(現・館林市)のことである。
すなわち、利根川河岸の周辺地域が物語の舞台というわけだ。

この作品には特定の主人公が存在せず、
各場面ごとに軸となる人物が登場しては
また別の人物へと移り変わっていき、
一種の群衆劇となっている。

花袋の自然主義文学の代表的作品である
『蒲団』や『田舎教師』は、
人間の本性を率直に描くと言うことで、
多少なりとも暴露的な部分や
スキャンダラスな要素が出てくるうえ、
事実と虚構が入り混じっていて
どの部分が創作なのか判然としないため、
読んでいると、
「登場人物のモデルにされた人にしてみたら、
さぞかし迷惑に感じるだろうなあ」と
思うことがしばしば。
例を出して言えば、
『田舎教師』の主人公が女郎屋通いをしている部分は、
モデルとなった人物の事実に基づかぬ作者の創作である。
自分にとっては、そうした部分の存在が、
作品を楽しむうえでの阻害要因となる場合もある。
(花袋本人が主人公のモデルである『少女病』は、
自己暴露ということで容認しやすく、素直に楽しめるけど)。
群衆劇たる『再び草の野に』の中にも、
田山花袋本人がチョイ役程度に
小説家Tとして名前が出て来たり、
『蒲団』のヒロインのモデルともなった
花袋の弟子・岡田美知代が
非戦主義ゆえに警察の監視を招く
ハイカラな女として登場していたり、
『田舎教師』の主人公・林清三が
教員Sとして登場していたりしているのも事実だが、
特定の人物に固執して
暴露的な描写をしているわけではないので、
「モデル問題」を大して気にすることなく
作品を読み進められた。

現代の日本においても、
都会の文化を模倣するのが良いことだという考えや、
新幹線や高速道路が通れば
都会の人間が数多く観光地を訪れて永遠の繁栄が約束される
といった幻想が根強く存在しているけども、
当然のことながら現実はそんなに甘くない。
20世紀は、東京の文化を模倣することが最善であると
考えられていた時代であったが、
21世紀は、地域独自の文化を形成し、発信していくことが、
何よりも重要視されている時代なのではなかろうか…。
ご当地のグルメ、ゆるキャラ、アイドルなどが続々と誕生し、
飽和状態を迎え、淘汰の時代に入ろうとしている今だからこそ、
「再び草の野に」にならぬよう
生き残りの方策を考えることは大切だ。