『毛皮を着たヴィーナス』 | さすらい人の徒然日記

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ザッヘル=マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』
(種村季弘・訳、河出文庫)を読了。

サド、マゾという言葉が
一般に認知されるようになって久しいものの、
その言葉の由来が、マルキ・ド・サド侯爵と、
レオポルト・フォン・ザッヘル=マゾッホという作家にあることは
意外に知られていないようである。

『毛皮を着たヴィーナス』は、
マゾヒスト、マゾヒズムの由来となった
ザッヘル=マゾッホ(1836~1895)の代表作で、
1871年に刊行された小説。


物語は、「わたし」と、
毛皮を着た愛の女神ヴィーナスとの対話によって幕が開く。
その対話では、ギリシア神話的な官能的な愛と、
キリスト教的な貞節を重んずる愛との対比が語られる。
ただし、この序盤は夢の中の話。
「わたし」は従僕に起こされ、
風変わりな友人ゼヴェリーンの邸宅を訪ねる。
そこで「わたし」は、
毛皮を着たヴィーナスを描いた絵を目の当たりにする。
その絵の由来を尋ねる「わたし」。
すると、ゼヴェリーンは、自らの過去の体験を書き記した
「ある超官能者の告白」と題された原稿を手渡すのであった。
本当の物語は、ここから始まる。
つまり「枠形式」というわけだ。

物語の主人公であるゼヴェリーンは、
ワンダ・フォン・ドゥナーエフという
若く美しい金持ちの未亡人と知り合う。
その圧倒的な美しさに魅了されたゼヴェリーンは、
ワンダに愛の告白する。
共同生活を始める2人。
そして、ゼヴェリーンはワンダに求婚をするが、
愛情の永続性を信じていない彼女は、
結婚という儀式、誓言、契約を、軽蔑しており、
ゼヴェリーンへの愛情の存在を認めつつも、やんわりと拒絶する。
ワンダを諦めきれないゼヴェリーンは、こう述べる。

「私には理想の女性のタイプが二つあります。かりに自分に忠実に優しく運命をともにしてくれる、高貴な心の、明るい女性が見つからなくても、それでも中途半端ななまぬるいのはご免です! それくらいならいっそ婦徳のかけらもない、不実で無慈悲な女の手に渡されたいのです。そういう女だってその自己中心的なすさまじさの点で理想です。愛の幸福を心ゆくまで味わえないのなら、愛の苦痛、愛の苦悩を最後の一滴まで残らず飲み尽くしたいのです。自分の愛する女に虐待され、裏切られたいのです。それも残酷であればあるだけ素敵なのです。それだって快楽なのですから!」

そして2人は契約書を作る。
それは、セヴェリーンがワンダの従僕・奴隷となる内容で、
ワンダがゼヴェリーンを虐待をする時、
専制者、支配階級の象徴ともいうべき毛皮を身にまとう、
という条件も記されていた…。


ジャンルとしては「官能小説」や「性愛小説」に該当するのだろうが、
あからさまな性描写は皆無に等しい。
せいぜい激しい接吻の場面が描写されているくらいである。
虐待の場面は、
縄で縛られ柱に結わえらて鞭で打たれたり、
床に這いつくばらされて踏みつけられたりと、
まさしくマゾヒズムそのものとなっているのだが、
その描き方はさほど激しくなく、むしろ耽美的ですらあり、
正視に耐えないような感じではない。
その辺が19世紀の小説らしく感じられるのだけれども、
物語を読んでいると、時代感覚が喪失していくように感じられ、
作品の舞台が19世紀であるということを忘れてしまうほど。
(その辺は、訳者の手腕の見事さかもしれない)
「性」を題材にしたドイツ文学作品としては、
世紀転換期に活躍したヴェデキントやシュニッツラーらの作品に
匹敵するような強烈な存在感があると言えるだろう。

僕自身には、嗜虐趣味も被虐趣味も皆無なため、
ゼヴェリーンの嗜好にはまったく共感できないが、
マゾヒズムを、「異質」ではなく「超官能」という位置づけで
描いている点は面白い。

最初は乗り気ではなかったワンダが、
契約を結んだ後、次第に打擲行為に快感を覚え始め、
サディストとして開眼していく様。
また、全ての命令に従う奴隷の立場であるはずのゼヴェリーンが、
ワンダに対し、自分を捨てるのだけは止めてくれと懇願し、
奴隷に徹し切れていない姿を露呈してしまう様は、
この作品の読み所である。