『リルケ詩抄』 | さすらい人の徒然日記

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『リルケ詩抄』(茅野蕭々・訳、岩波文庫)を読了。

茅野蕭々と書いて「ちの・しょうしょう」と読む。
リルケの詩のまとまったものとしては、
1927年に刊行されたこの『リルケ詩抄』が本邦初でした。
それが岩波文庫として復活したわけです。
岩波文庫のカテゴリ分けでは、
海外文学は赤帯になるのですが、
この本は日本文学を表す緑帯。
日本におけるリルケ受容史を知るうえで欠かせぬ
貴重な文献という捉え方で、このカテゴリになったのでしょう。

僕が『リルケ詩抄』という本の存在を知ったのは、
文芸評論家の高橋英夫さんが書き、
岩波書店のPR誌『図書』1998年7月号に掲載された
「茅野蕭々『リルケ詩抄』のこと」というコラムを読んだのが最初。
それから約10年後に岩波文庫で復活し、購入できようとは、
当時はまったく予想しませんでしたよ。

茅野蕭々の翻訳は、口語を用いた、極めて簡潔なもの。
リルケの詩は、ただでさえ難しいものが多いですから、
それを文語で訳されようものならば、
まず頭の中で文語を口語に変換させ、
それから詩の内容を理解しないといけないわけで、
なんとも面倒なことになります。
その点、最初から口語訳になっていると、
言葉をあるがままに受け止めれば良いので助かります。
とはいえ、リルケの詩の難しさと直面することに変わりないですが。

リルケの詩は、
抽象的と言ってもよいほど感覚的な言葉に満ちているので、
ゲーテ、ハイネらの抒情詩を読むような感覚で作品と対峙すると、
「これは何を描いているのだろう?」と困惑し、非常に面食らいます。
それは、写実的な絵画に親しんできた人が、
抽象画に初めて接した時の困惑に似ているかもしれません。
リルケが配した言葉を、理詰めに考えるのではなく
感覚的に捉える必要性があるわけで、
リルケの詩と接するうえで必要なコツのようなものを掴まないと、
彼の作品は親しみにくい存在に感じられるでしょう。

この本の巻末にある「ライネル・マリア・リルケ」は、
リルケの詩を理解するうえで極めて役立つ論文です。
そこでは、リルケの詩の発展や特徴が語られており、
「ああ、なるほど。そのように読んでいけばいいのか」と納得がいく、
見事なリルケ詩の解説となっています。
茅野蕭々が記したその論文には、次のような言葉が出てきます。

「先ず第一に気づくことはリルケの詩の著しく感覚的なことである。彼が事物に対する洞察も直感も悉く精細微妙な感覚の中に溶解されて読者の心に伝えられる。それ故粗大な精錬されぬ感覚を持っている人々の側からは、彼の詩は常に難解であり朦朧であるとの非難を免れない。しかしながら感覚の繊細を誇り神経の遊戯に陥って其処に美の源泉があると信ずる人々からも、彼の詩は真の賞賛を酬いらる可きでは無い。リルケの詩は一見それ等の人々の詩風に似て居るものの、基本質に於て莫大な径庭が横わって居るからである」

僕は、もっと感覚を精錬させなければいけませんね。

さて、リルケの詩の中で比較的分かりやすいものを紹介しましょう。



「秋」(形象篇第一巻より)

葉が落ちる、遠くからのやうに落ちる、
大空の遠い園が枯れるやうに、
物を否定する身振で落ちる。

さうして重い地は夜々に
あらゆる星の中から寂寥へ落ちる。

我々はすべて落ちる。この手も落ちる。
他を御覧。総べてに落下がある。

しかし一人ゐる、この落下を
限なくやさしく両手で支へる者が。