ハイネの『ドイツ古典哲学の本質』(伊東勉・訳、岩波文庫)を読了。
詩人として有名なハイネだが、
彼はジャーナリストや評論家としても活躍していた。
そんな彼が、亡命先のフランスにおいて、
ドイツの古典哲学を紹介するために書いたのが、この作品である。
この作品の原題は「ドイツの哲学と宗教の歴史」なのだが、
訳者は何故か上記のようなタイトルに変えている。
この本を読んだ僕の個人的印象としては、
原題の方が、作品の内容をよく表していると思うので、
わざわざ改題したことに対し、正直首をかしげざるをえない。
訳者は何故か上記のようなタイトルに変えている。
この本を読んだ僕の個人的印象としては、
原題の方が、作品の内容をよく表していると思うので、
わざわざ改題したことに対し、正直首をかしげざるをえない。
ハイネのこの著作品は、
哲学のみならず宗教についても触れられている。
それは、西洋哲学がキリスト教と密接に絡み合って、
次々と展開してきたからに他ならない。
この本は、3つの部分から成り立っており、
第1巻は「宗教改革とマルチン・ルター」、
第2巻は「ドイツ哲学革命の先駆者。スピノザとレッシング」、
第3巻は「哲学革命。カント、フィヒテ、シェリング」、
と、それぞれタイトルがつけられている。
これはハイネが、哲学者たちの業績を
宗教革命にも匹敵する「世界観の大転換」と捉えているからだろう。
ハイネの語りは、極めて機知に富み、明快である。
「哲学」につきまといがちな難解なイメージとは正反対の、
とにかく読みやすい文章によって構成されている。
彼の筆は、哲学者たちの思想を紹介するだけではなく、
その人物像の描写にまで及んでいる。
例えば、フィヒテがカントに宛てた手紙の中で
借金を申し込んだエピソードが紹介されており、
「哲学者もまた生身の人間なのだな」と痛感させてくれる。
哲学とは何か。
それは、自我、世界、存在などに対する知的な探求である。
僕は哲学には興味があるけれども、
正直言って哲学書を読んだためしが一度もない。
というのも、大半の哲学書は難解な専門用語が羅列してるばかりで、
ほとんど言葉遊びとしか思えないからだ。
「分かりやすく説明する」ということを放棄した書物を読んだところで、
僕が得る物はほとんど無いと思う。
だから僕は、過去の哲学者たちの著作品には頼らずに、
自分自身の頭であれこれ考えてみるのだ。
「世の中にあるものは全て、
自分の意識が見ている幻影のようなものではないか?」
といった具合に観念論的な考えを抱いたこともあれば、
「世の中に存在するものは全て、物質によって構成されており、
人間の感情もまた、生物が持つ細胞レベルの
科学的反応の表れにすぎない」
という唯物論を抱いたこともある。
まあ、様々な考えが浮かんでは消え、
次々と入れ替わるといった具合だ。
とはいえ、常に変わらない考えというものもある。
それは、「神、霊魂、天国といった形而上学的なものは、
時間と空間という制約の中で存在している人間には
認識できないし、その存在を証明することもできない」ということ。
こうした意見を述べると、
僕のことを無神論者だと思う人もいるだろう。
だが、よくよく考えてみると、
そもそも「神」というものを定義づけることすら困難だと思う。
我々が存在する世界を創造したものを指して「神」というのか、
それとも、世界そのものを「神」と呼称するのか。
汎神論と超越神論が激しく論争しあうように、
「神」について考え始めると、
答えのない問いを延々が繰り返されるばかりだ。
それでも、その問いをやめようとはせず、
真理を求めて思索をする人間というものに、僕は興味がある。
哲学の面白さというのは、
人間に対する興味から発せられているのかもしれない。