Interlude ~MtFの痰壺~ -4ページ目

Interlude ~MtFの痰壺~

私たちは過去と未来の間を生きている。
普段は表に出さない心の汚れや毒…
それらをただ吐き捨てるためだけに作られた見苦しいブログ。


よく、『陰口を言う人は嫌い』と言う人がいる。

でも、私はそう言う人こそ嫌い。

陰口を言われるような人に対して周囲の人間が抱いている印象というのは、だいたい同じようなもの。

例えば、虚言癖がある人に対して『嘘つき』と感じたり、男性の前だけ甘えた態度を取る人に対して『猫かぶり』と感じたり。

陰口というのは、そう感じているのが自分だけなのかということを確認し、その認識を他者と共有するための行為。

だから、私はその確認作業をしない人のほうが怖い。

自分の認識が誤解なのか否かを確認もせずに、飲み込んだまま吐き出さないほうがよっぽど恐ろしい。

ここで出てくるのが、そもそもそういった負の印象を抱かない人なのでは?ということ。

もはやそれは、他者に興味を持たない人なのではないかと思う。

負の印象を抱くことはすなわち、相手に興味を持っている証拠でもある。

良いところだけでなく、悪いところも受け止めなければ、相手と良い関係は築けない。

いずれにせよ、勝手に飲み込んだまま吐き出さない人も、そもそも何も感じない人も、私からすると人間味のない人のように感じる。

多くの人と上手く付き合えている人こそ、我慢していることは多いはず。

その溜め込んだ些細な我慢をどこかで発散することが、そんなに悪いことなのだろうか。

誰もが無理にベッキーのようにならなくてもいいと思う。

よく、陰口を本人に聞こえるように言ったりあからさまに言動でぶつけたりする人がいる。

それは陰口ではなく暴言。

相手の耳に入っている時点でもう陰口ではない。

そこを履き違えている人が非常に多い。

私は暴言はしない。

それは相手をただ傷付けたいがための行為。

陰口とは、相手の耳に入らないからこそ成立するものなのだ。

それは相手を傷付けるための行為ではない。

その区別がついていない人は陰口を言う資格もないし、それを非難する資格もない。

先日AKB48の峯岸みなみが恋愛禁止ルールを破り、坊主頭でファンに謝罪する動画を公開したことが世界にまで波紋を呼んだ。

結局、アイドルが異性と付き合わないなど幻想でしかない。

そうであってほしい気持ちはよくわかるが、恋愛していたからといって裏切られた気分になるというのはどうかと思う。

そんなものはファンがアイドル相手に抱いている勝手な妄想にすぎないからだ。

そんなファンの妄想を壊さぬようにと密会していたというのに、その現場を盗撮して記事を書き晒しあげた週刊誌がいかに低俗か。

そもそもアイドルグループが『恋愛禁止』という、到底できもしないルールを売りにしていること自体が問題である。

プロデューサーである秋元氏も、『恋愛禁止とは言っていない』としつつ『恋愛をしながら甲子園を目指すのは難しいのではないか』などという発言をするとは実に無責任。

恋人がいると目標を達成しづらくなるとでも言いたいのだろうか。

言わないにしろ『恋愛禁止』という意識を刷り込ませてきたのはこの秋元氏であるのにもかかわらず、ここまできて我関せずと言わんばかりのこの発言はただの責任逃れとしか思えない。

また相手の白濱亜嵐も、なぜ肉体関係はなかったとはっきり言わないのか。

肉体関係があったのなら、なぜ『仲の良い友達』などと嘘をつくのか。

発覚すれば糾弾されるリスクを承知していたはずであるのに、なぜ発覚してもなお説明責任を果たさないままでいるのかなど謎は尽きない。

相手が坊主頭にまでなってしまい、肩身が狭い思いを強いられてしまっているのはよくわかる。

しかし、だからこそ事実を堂々と開示し今後の意思表示をしっかりとするべきではないのだろうか。

坊主頭で涙ながらに謝罪・反省の意を述べるアイドルの姿は、日本人だけでなく世界中の人々が異常性を感じた。

それに対して、なおも『恋愛禁止』を掲げ続けるアイドルグループや、もっと反省しろとネット上で彼女を追い詰める人々。

これらの存在こそが異常なのであり、その異常性を世界に知らしめてしまった責任はいったい誰にあるのか。

過剰な演出方法、話題性重視の運営体制、またそれによる情緒的感覚の麻痺やモラリズムの崩壊。

本当に反省するべきなのはいったい誰なのか、今まさに日本人が真剣に考える必要性を世界から迫られている。
以前書いたマライア・キャリーの口パクについての記事には根拠となるものが無かったため、今回は証拠としてYoutubeの動画を交えて紹介する。前回の記事はこちら→マライア、口パクの秘密(別ウィンドウ)

【1】完全口パクの事例

これはもはや説明の必要はないかと思うが、CDをそのまま流している状態。動きや表情も豊かで、終始口パクを貫いている様子がうかがえる。おそらく客も、ライヴというよりパフォーマンスという感覚で見ているのかもしれない。CD発売前後、初期の各国プロモーションで多くみられるが、それ以外ではほとんど実施されない。

【2】pre-recorded口パクの事例

こちらは国歌ということでCDでの販売や公式な楽曲配信はさせれていない。一見本当に歌っているようにも見えるが、よく見ると口パクしていることがわかる。マライアは、地声と裏声を頻繁に切り換えて強弱をつける特徴的な歌い方をする歌手だ。当然、裏声で歌うところはマイクを口元に近づけないとあまり聞こえなくなってしまう。ところが映像を見ると、動画(1:00)のようにマイクから口元が極端に離れている時に裏声が聞こえたり、動画(1:03)のように歌声が聞こえているうちに息を吸っていたりする。よって、実際に歌っているように見せかけて、事前に録音されたもの(pre-recorded)を流しているだけなのである。自身の古い曲を披露する際などに、現在の声質であらかじめ歌いなおして編集したものを流し、完全口パクしている大規模なライヴ映像もある。
それがこちら↓

最近の曲でも同じ方法をとる時がある。
それがこちら↓


【3】部分口パクの事例

こちらの動画はイヤホンやヘッドホンをして聞くと口パクしている部分がわかりやすい。明らかにマイクからの音声ではない歌声がところどころで聞こえる。ちなみに動画(2:13~2:15)(2:28~2:35)(2:24~2:48)の部分はライヴ用に録音されたpre-recorded音源が使用されている。結果的に、まともに歌っているのは最初と最後だけということだ。部分的に口パクをするという発想を想定していないファンも多く、口パクではないと信じ込んでいる者がほとんどである。この部分口パクはマライアの常套手段であり、これが使われないライヴを探すほうが難しい。過去には口パクするはずの部分が早まって再生されていまうというプログラムミスも起きている。
それがこちら↓

動画(0:49~1:02)では、出だしから機材の不調のためかマライアの声が幾重にも重なり始め、突然切れる。マライアはその時“Hey...”と困惑の声を思わずもらしている。さらに動画(3:02)では口パク部分の音源が早まって再生されてしまい、直後にマライアが“Stop singing my part now baby”(私のパート歌わないでちょうだい)と歌いながらごまかしている。本来ならその後から最後まで口パクする予定だったが、マライアが言った台詞によってスタッフがプログラムの停止を判断したのだろう。またマライアも“Stop”と言ったからには腹を決め、最後まで口パクせずに歌いきった。皮肉にも、結果的にこの曲だけ一切口パクをしないで歌ったライヴになった。別のライヴでは、口パク中に発するマライアの声が丸聞こえになってしまっているものもある。
それがこちら↓

このライヴでの口パク部分は動画(3:20~3:32)(3:35~4:10)なのだが口パク中にマライアが発している小さなhigh note(whistle note)という高音の声が、動画(3:46)部分で大きく聞こえてしまっている。耳を澄ませて改めて聴くと、口パク中の部分のところどころでこの声をマイクが拾ってしまっているのがわかる。このライヴに関してファンからは“バックコーラスのやつのせいでライヴが台無しだ”などの声が多く上がっているが、この声がマライアのものだと知っている者は少ないようである。



今回紹介したライヴ映像は、最も口パクがわかりやすいものを選んだ。そのため、ほかのライヴ映像で口パクを見極めるにはマライアのCDを聴きこみ、数多くのライヴ映像を見てからでないと難しいかと思う。マライアは世界一口パクを駆使するのが上手い歌手であると言っても過言ではない。ただ、そうする背景には彼女なりの理由があるのだ。また、口パクは声の温存にも役立っている。ライヴ活動で声を酷使し、早々に現役を退いていった歌手は数多くいる。そんな中、20年以上も歌い続けていられるのは、実はこの口パクのおかげでもあるのではないかと私は考えている。私はマライアの歌声が大好きだ。これからも、その声が続く限り世界に向けて感動を届け続けてほしいと願っている。



【口パクなし】
旧友であるマイケル・ジャクソンの追悼式で、涙をこらえながら生歌を披露するマライア↓


2012年、あのクリスマスの名曲を世界に届けるマライア↓


前田敦子さんが『最初から最後まできれいに読めた本は記憶上では初めて』という発言をTwitterにてしたことで、ネット上では『恥ずかしいこと』『バカと思われても仕方ない』などと言われている。

実は、私も今まで本をまともに読んだことがない。

最初から最後まで読んだのは、大学の頃に読書感想文のレポートを提出するために読まされた『兎の眼』のみだ。

興味のない本を最初から最後まで読むというのは、延々と説教をされているのと同じくらい苦痛だった。

小・中学校の読書感想文は絵本のようなものでも良かった。

読書週間など、存在意義がさっぱりわからなかったので読んでいるフリをしていた。

読解力や想像力を育むには本がちょうどよいのかもしれないが、それらは必ずしも本でなければ育めないものなのだろうか。

私は今まで、小説はもちろん漫画すらも読んだことはない。

しかしながら、私はそれを恥じたことなど一度もない。

なぜなら、学びは本以外からでも十分に得られることを知っているからだ。

あのマツコ・デラックスさんも、いつかのテレビ番組で自分のことを『本というものを読まずにきた人間』というようなことを言っていたのを覚えている。

もちろん『一冊も』とは言っていなかったが、コラムニストである彼女(彼)の話は実に面白く、非常に哲学的な要素を多く含んでいる。

必ずしも本というツールを使わなくとも学びのツールは沢山あるということ。

小説や哲学書をたくさん読んでいるからといって『利口』であるということにはならない。

それと同じように、本を読んでいないことが『恥』であったり『バカ』に結びついたりすることも決してないのだ。

しかも今回話題になっている前田敦子さんなら、まともに本を読む余裕などないほど仕事をさせられていたのだろうことが容易に想像できる。

彼女はきっと世の人々が静かに読書をして学んでいる時、AKB48としての活動を通して様々なことを学んでいたのだろう。

それゆえ、私たちでは知り得ない様々なことを彼女は身をもって知っている。

それを馬鹿にすることなど私にはとてもできない。

しかも、彼女の発言から“一冊も本を読んだことがない”とするのはあまりに短絡的。

これは私の推測だが、おそらく彼女は“最初から最後まですんなりと内容が理解できた本はこれが初めて”というようなことが言いたかったのだろう。

それを、揚げ足を取るようにつまみ上げて嘲笑を誘おうとする者こそ己の身を恥じるべき。

仮に、彼女があの発言の中で指した『本』が、小説などの創作物ではなく、ルポルタージュや哲学書などを指していたとすれば、彼女の年齢なら読んでいなくても不思議ではない。

いずれにせよ、あの短い文から“一冊も本を読んだことがない”と導くにはあまりに無理があるし、集団で叩こうとする悪意しか感じられなかった。

ただ、最後に言いたいことがある。

前田敦子さん。

あなたのことは嫌いじゃないが、AKB48のことは嫌いです。