ひらひらと雪
雪はしずかだ。しんしんと―。という言葉がぴったりだ。いつもより厚着をして、出ていく前にカーテンを開けて12階からの町を見渡すと、たくさんの白い大きな雪粒がひらひらと空を舞っていた。外を確認したのは、まだ車にスタッドレスを履いていないからだ。うん。大丈夫だ―。ちいさな送りびとに後ろ髪を引かれながら家を出た。エレベーターを待つあいだ、コートに首をすくめると、懐かしいそれだった。道路はすいていて、祝日の朝のようにすいすい進んだ。商談のない日、職場では一日中パソコンと向き合っていて、窓は背中側なので外が見えない。それは不満。時折振り返っては、外の様子を確かめた。昼に近づくにつれ、雪のひらひらはさらに量を増した。20代の頃は、毎週雪山に出かけた。それなりに上手くなって、思い出の中だけでは燦然と輝く勲章のような大怪我もいくつか乗り越えて、それでも毎週のように通っていたのだから、やっぱり好きだったのだろうと思う。ボードも。雪山も。向かう道中や、車中のカップホルダーから立ちのぼるコーヒーの湯気や、お気に入りの曲たちも含めて。ところが今は、まったく行かなくなってしまった。行けなくなった-、というのは言い訳のように思えるけれど。今は背中だけで感じる雪の気配を、記憶を、思う間もなくあっという間に昼が過ぎて、夕方になって、それは突き刺すようなつめたい空気だけを残して止んでいた。夜も遅くなって帰り際、駐車場の隅で凍りかけている雪たちを見て、なんだか少しさみしくなった。仕事は、実は手を抜いている。一生懸命になりすぎると人格が変わってしまうぐらい、嫌いな自分が表に出てくるから。そうなっている自分を、見えてしまうのが嫌だから。だからあえて、「抜けてるなぁ」と言われるぐらいで止めておくのがちょうどいい。目立ってしまうと、抜かれるか、叩かれるか。それは嫌というほど身に染みているし、主張するほどの野心も欲も、ここには求めなくなっている。ひっそりと。だけれど、やるべきことはして、チームから逸れないようにはしている。力の入れ具合も、きっと覚えてきたのだろう。そうして気づけば、いろんなことを仕事から学んだ。一生懸命主張をして、自分の意見やプランを堂々と披露している同僚たちを、だからぼくはいつも少し冷めた感で見てしまっている。ひらひらと時間をかけて落ちてくる雪たちみたいに。ぼくの知れない彼女の生活を思うのが好きだ。ひとは見えないところほど、ほんとうのそのひとが映し出されているようで魅力的に思える。遠い空の下、知らない生活の中で、知らない毎日を過ごしている彼女の、生活の仕草はどんなだろうか。どんなふうに、どんなところで生活をしているのか。どんなカップで珈琲を、どんなふうに時間を、思いを馳せたのだろう。窓枠の中には、どんな風景が納まっているのだろう。あの頃と、変わったところがあるだろうか―。ぼくの“知らない”は、増えただろうか―。それはでも、“知れない”からいいのだろう。“見えない”からいいのだろう。きっと、ぼくの目の前の日常とおなじような日常で。おなじように雪は降り、おなじようにしんしんと、積もったようで消えてしまった雪のように。サッシや、アスファルトを湿らせただけのひらひらのように、それはでも時間をかけてゆっくりと地上めがけて降りてきて、音もなく消えていく―。少し寂しい気がするのは、ぼくらに時間があることを知っているから。また、会える機会の来ることを知っているからこそ、はかない雪のひらひらを惜しんでいる。次は、いつ会えるだろう。つめたい空気を後にして、玄関をくぐった。ちいさな迎えびとが、ぱっと笑ってこころがほどける。ただいまね。