もう、ことばなどいらないけれど。
秋晴れの、おなじ空見上げたら。
ようやくほどけて、微笑えたよ。
分かっている。
風邪は終息を迎え、わずかに体調は上がっている。
毎日は待ってくれないし。
歯車のひとつとして、きちんと機能しなければならないことも。
働くって、大変だな。
と、まるで新入社員みたいな愚痴を、今更ながらに同僚とこぼしながら。
まるで、公平ではないと思う。
平等なんかでもなく。
知らなければ損をするし、騙されたら搾り取られてしまう。
負けると何かが崩れ落ちるし、歩みを止めたら置いて行かれてしまう。
嘘も方便。
うまく渡り歩けるやつは、すごいひと。
器用でマルチで、意志が強くて。
社交的で、エネルギッシュで。
笑顔が素敵で。
魅力的で。
立派なひと。
まったくもって。
そうありたいとおもったことは一度もないけど。
決してぼくは今も立派なひとではなく、それは自信を持って宣言できる。
‘そうありたいと思うところから、どんどん遠ざかって行くことが大人になるということ’
であるならば。
ぼくも、もうずいぶん立派な大人になった。
‘たいせつなもの’の過ぎて行くのを分かっていながら、それを後目に大きなナンバーを付けられるか。
ネクタイをはずしては付けて、季節をいくつもまたいでもなお、タスクと向き合えるか。
たぎる気持ちに冷水をかけ、澄まし顔で煙の中へ飛び込めるのか。
憤りながら笑えるのか。
笑いながら刺せるのか。
スーパーマンじゃあるまいし。
まったくもって。
大人ってのは、立派なひと。
「やめたきゃ、やめなさい。」
何度も何度も聞いたことのあるそのセリフは、誰もが、何度も何度も自分に向けて吐いてきたセリフ。
「やめれるもんなら、とっくにやめてるよ。」というセリフとセットで。
そうして、自分を鼓舞して叩いて、なじって、慰めて愚痴って笑って叱って罵って励ましてってしなければ、到底成しえなかったことたちを、あたり障りの無い日常と呼ばれてしまう毎日を、幾度も幾度も乗り越えてきたひとたち。
まったくもって。
立派なひと。
大人ってのは。
ときどき、だからどこへ向かっているのかわからなくなってしまう。
そうありたい自分と、離れていく自分。
やれるものなら、やりたいのに。
やめれるものなら、やめたいのに。
行けるものなら、行きたいのに。
そうありたいと思えばおもうほどに、気づけばそこから遠く離れた場所に立っている。
そうして、茫然と立ちすくんでしまう。
もはや、どこへ向かおうとしていたのか、どこへ帰るべきなのか分からないから。
やいのやいのと、まわりばかり騒がしくて。
ずいぶん流されてきたものだと茫然と立ちすくむ自分を、そうあるべき立派なひとである自分が、見下ろしている。
やれやれ。と。
ぼくは、立派ではないが大人になった。
三十数年前に、‘戦隊もの’のお面をつけて、「やーっ!」と、母親のお尻めがけて剣を振っていたぼくではない。
春が来るたびにどこか気だるくて、意味もなく目的もないけど、「仕事、やめよっかなー」なんてぼやいていたりもしない。
言いようのない日常というタスクを必死でこなし、二十年以上もそうしてお金を稼ぎ、食べ、生活し、こうあるべきだと思える方へ、夢中で歩いてきた。
なのに、なんだろう。
どこへ向かっているのかさっぱり分かっていない。
社会と自分とを繋ぎとめておく鎖は仕事であるべきだと、信じてずっと歩いている。
だのに、なんだろう。
どこにも鎖なんかありゃしない。
今も洋上をふわふわと漂う、筏のような自分がいる。
それに。
漕ぐのにも疲れている。
なんのために、漕ぐのかさっぱり分からなくなっている。
あやうい。
でも、大丈夫だ。
きっと、うまくやれる。
今までだって、そうしてきたのだから。
目を閉じて、確かめてみよう。
自分のあるべき姿を。
立派におとなとして、戦士として、戦い続けてきた鎧を。
まとってみよう。
もう一度。
力の限りふるい続けてきた、刀を。
振ってみよう。
だけど。
何のために。
誰のために。
どこへ。
分かっている。
風邪は終息を迎え、わずかにだけど体調は上り調子だ。
毎日は待ってくれない。
歯車のひとつとして、きちんと機能しなければならない。
漂うものは、ぼくではない。
筏だ。
雲だ。
秋晴れの、おなじ空見上げたら。
どこへ向うでもなく、どこに行くでもなく。
どこへも行かなくったっていい。
立派なひとに、ならなくったっていい。
大人に、ならなくったっていい。
そのままで、いいんだ。
そう、言ってくれたひとがいるから。
ようやくほどけて、微笑えたよ。
無邪気さと、立派なおとなとしてのプライドを持って。
めぐり合う、知らぬひとの手はあたたかく。
秋空の合間に、たゆたう笑顔はとても美しい。
ぼくは、流れゆくものだから。
瞼の裏に、とびっきりの美しい笑顔を焼き付けて。
日常に意味などないと、戦隊もののお面を付けて、鞘から刀を解き放つ。
誰から、斬ろうか?
手始めに、己を斬って捨てれるか。
刃がぼろぼろのぐずぐずだったとしても。
されど、血のりの付いた刀で人は斬れず。
折れたオールで筏は進めない。
そうして。
ただ、ただ、空を見上げるしかないんだ。
こんなにも秋晴れの美しい空に、一歩も踏み出せない足が根をはるから。
どこへ向かえばいいのか、さっぱり分からないままに。
もう、どこへも行けないかもしれない。
だって、ぼくは流浪人。
茫然自失で、目を閉じる。
自分自身が、何者かさえ分からずに。
誰も、傷つけないようにと思いながら。
刀を振るう。
それを見下ろしている、自分がいる。