春を待っていた。

 

 

 

気付けば、春になっていた。

見えない、ということは知らないということ。

 

言葉を綴るには、忙しすぎる毎日があった。

言葉になる前に、季節が変わっていた。

 

 

 

担当するものが変わり、それはそれで新しい季節がやってきた。

潜水の、スタートを蹴ってから初めて顔を上げたような日が今日。

肺いっぱいに酸素を入れて、すぐにまた潜る日々は続く。

次の動作に移る前に、顔の前で合わせた手の先に見える“一瞬”の、

明日という欠片―。

 

時々、日々は意味のない繰り返しのように思える。

いつか必ず命は静かに終わりを告げ、新しい何かに繋がっていくもの。

ここにある日々は、すくった手の平からこぼれ落ちる砂粒のように、風に消えてしまうもの。

そんなふうに、思えることもある。

 

だから、一瞬の先に見えたものを認識して、言葉にする頃にはもう水の中に潜っている。

必死に水をかいて前に進もうとしている。

 

だけど、愛すべきひとの喉をつたい落ちていく珈琲の、

鼻先を漂う香りのように、それは想像するだけで愛おしいもの。

 

見えずとも。

知らずとも。

それは、愛おしいもの。

だから、認識することにあまり意味などないものと思えてしまう。

感じてしまうもの。

感覚的なもの。

 

毎日は、そうして感覚的に過ぎていっている。

今日という日を、言葉にする間もなく―。

 

 

この街の上の、湿った色の空は今日、ぼくの生きる世界に雨を降らせた。

明日は春の陽気になり、晴れるだろうとキャスターがどこかで言っている。

ただ、天気などどうでもいい無意識の中に埋もれ、

ぼくはまた明日も、のたうちまわる心臓と残りの酸素量を押しはかりながら、必死に水をかいているだろう。

とうに春が過ぎ去ってもなお、ぼくは春を待ち続けているのだろう。

繰り返される日々。

感覚的にすり抜けていく日々。

言葉にして、初めて春の来たことを知る。

鼻先を漂う珈琲の香りに気付き、生きていると感じた。

 

 

 

だけれどそれは、必死に水をかいている一瞬の、

その先に見えた想像の中の感覚。