揚屋から戻ってきた遊女たちが落ち着き、各々の部屋に戻ったのだろうか
置屋の中に、夜の静寂が訪れる
そろそろ○○が来る頃か
昼間のやり取りを思いだし、思わず己に失笑する
―――今夜…仕事が終わったら、わての部屋に来てくれるか?
よくそんなことを言えたものだ
落し物の礼なんて口実に過ぎない
ただ、二人で逢いたいだけだなんて、何があっても口にはしないが
でもきっと、疑う事を知らない○○は素直にこの部屋に来るだろう
予め言っておいたように、二杯の茶を持って
筆を置き、用意しておいたひと袋の菓子を袖の下にしのばせる
机の上の帳面を閉じたとき、襖の向こうから声がかけられた
『秋斉さん…失礼します』
スッと開けられた襖の向こうには、盆にふたつの湯呑を乗せた○○が立っていた
「…入りよし」
そう言って部屋に招き入れる
○○は少し恥ずかしそうに俯き、もじもじしながら歩みより、俺から少し離れたところに座る
『あ、あの…お茶をお持ちしました』
そう言ってひとつの湯呑を俺の前に差し出す
「おおきに」
ひと口含むと、それは俺好みの渋めの茶だった
茶の風味が引き立つ湯の温かさで淹れられたそれは、舌に柔らかな刺激を与えながら体内に染み渡っていく
「おいしく淹れてくれはりましたなぁ」
少し緊張した面持ちで眺めていた○○は、その言葉を聞き、ホッと表情を緩めた
…無防備な微笑み
人を疑うことを知らないのか
俺を信用しきっているのか…
いずれにせよ、○○のこの表情を他の誰にも見せたくないという独占欲が生まれかかる
しかしとりあえずのところはその思いに蓋をし、いつもの【楼主】の顔を作り○○へと向く
「昼間は助かりましたえ
これはわての気持ちどす」
そう言って、袖の下から小さな袋を取りだし、○○の手に乗せる
袋の中身は色とりどりの金平糖で、それを確認した○○は、更に顔をほころばせた
『うわぁ、美味しそう…』
女子は甘いものに目がないというが、○○もまた例に漏れずこういうものが好きらしい
そして、その金平糖に負けぬほどの甘い笑顔を俺に向ける
『秋斉さん、ありがとうございます』
思わず手が出そうになるのを抑え、慌てて平静を取り繕う
「さ、おぶでも飲みながら食べよし」
盆に乗せられたもうひとつの湯呑に目をやり、茶と菓子を促す
茶をひと口含んだ後、金平糖をひとつ摘まみ口へと運ぶ
それを受け入れた唇が、静かに俺を煽る
まだ少女のようなあどけなさなのに、ふとした仕草に妙に色香があり、その一連の動作から目が逸らせない
…これも惚れた弱味か
『秋斉さん、どうかされましたか?』
無意識のうちに眺めてしまっていたようで、○○から声を掛けられ我に返る
「いや、あんさんがあまり美味しそうに食べるさかい、つい見とれとったんや」
そう答えて笑みを浮かべると、○○は頬を赤く染め、俺から視線を外す
もう、何言ってるんですか、とか言いながら、手にした湯呑を何度か回し、せわしなく口へ運ぶ
からかっていると捉えられたか
それならそれで、今は良い
そう、今は…
開け放した窓から心地よい夜風が入り込み、細く輝く月が美しく弧を描いて部屋を照らす
闇の中に浮かぶ窓に、ふと何かの気配を感じ、気を遣る
…にゃあ~
淵に乗っていたのは一匹の猫だった
最近よく縁側に来ていて、俺の膝の上で過ごす事もある猫
『うわぁ…かわいい』
そう顔をほころばせる○○
いつもなら部屋になど入れるはずもないが、○○のこんな顔を見てしまってはこうするしかない
猫を呼び、部屋に招き入れた
その猫は素直に俺の膝に乗り、くつろいでいる
○○がそうっと近づき、猫を撫でようとしたその時
バリッ
猫が爪を立てて○○の手を引っかいた
『痛っ…』
慌てて引っ込めた手には既に血が滲み、それが白い手に伝っている
思わず猫を窓から放り出し、慌てて○○の手を取る
「見せてみよし」
幸い傷は深くなさそうだ
だが、この娘に傷がついたことがどうしても許せず、俺は一瞬己の冷静さを忘れた
ぺろっ…
考えるよりも早く、俺は○○の手の傷に口を当てていた
『あっ…秋斉さんっ?』
「…消毒や」
引っ込めようとする手をしっかり握り、下を這わせ続ける
しばらくは何とか手を抜こうとしていた○○も、いつの間にか抵抗するのをやめていた
それを確認し、俺は○○の手から口を離して清潔な手ぬぐいを巻いて止血する
「少ししたら止まるやろ」
少しだけ瞳に涙を浮かべた○○が、真っ赤になって向き直る
『あ、あの、ありがとうございました』
体はこちらを向いているが、視線は逸らしたままだ
…無理も無い
おそらく、何事もないと信用していた男に、こんなことをされたのだ
純粋なこの娘には、されたこともない事だろう
さすがに俺も冷静さを取り戻す
「堪忍え、○○はん…」
少し距離を置いて座りなおし、いつもの【楼主】の顔で、声で話しかける
『その、堪忍、はどういう意味ですか?』
○○からの思わぬ問いかけに、ふいを突かれる
『猫が引っかいたことですか?
それとも…この手当てのことですか?』
口調はいつものように優しいが、いつになくはっきりとした問いかけに少々怯んでしまう
俯いて、ぽつりぽつりと紡がれる言葉に、俺は返事をすることもできずただ耳を傾ける
『もし…この手当てのことを謝っているなら…
堪忍なんて言わないでください
私…嬉しいですから』
最後は消え入りそうな声ながらも、俺の心にはしっかり響いた
「嬉しいってどういうことや」
少しの自惚れを自覚しながらも、冷静に○○に問い詰める
『私は…秋斉さんのことが好…』
そこまで言ったところで、○○は言葉を止めた
いや、止まってしまったのだ
なぜなら○○は、俺の腕の中に引き込まれ、抱きしめられていたから…
―傷~続・秘密~前編― 続く
置屋の中に、夜の静寂が訪れる
そろそろ○○が来る頃か
昼間のやり取りを思いだし、思わず己に失笑する
―――今夜…仕事が終わったら、わての部屋に来てくれるか?
よくそんなことを言えたものだ
落し物の礼なんて口実に過ぎない
ただ、二人で逢いたいだけだなんて、何があっても口にはしないが
でもきっと、疑う事を知らない○○は素直にこの部屋に来るだろう
予め言っておいたように、二杯の茶を持って
筆を置き、用意しておいたひと袋の菓子を袖の下にしのばせる
机の上の帳面を閉じたとき、襖の向こうから声がかけられた
『秋斉さん…失礼します』
スッと開けられた襖の向こうには、盆にふたつの湯呑を乗せた○○が立っていた
「…入りよし」
そう言って部屋に招き入れる
○○は少し恥ずかしそうに俯き、もじもじしながら歩みより、俺から少し離れたところに座る
『あ、あの…お茶をお持ちしました』
そう言ってひとつの湯呑を俺の前に差し出す
「おおきに」
ひと口含むと、それは俺好みの渋めの茶だった
茶の風味が引き立つ湯の温かさで淹れられたそれは、舌に柔らかな刺激を与えながら体内に染み渡っていく
「おいしく淹れてくれはりましたなぁ」
少し緊張した面持ちで眺めていた○○は、その言葉を聞き、ホッと表情を緩めた
…無防備な微笑み
人を疑うことを知らないのか
俺を信用しきっているのか…
いずれにせよ、○○のこの表情を他の誰にも見せたくないという独占欲が生まれかかる
しかしとりあえずのところはその思いに蓋をし、いつもの【楼主】の顔を作り○○へと向く
「昼間は助かりましたえ
これはわての気持ちどす」
そう言って、袖の下から小さな袋を取りだし、○○の手に乗せる
袋の中身は色とりどりの金平糖で、それを確認した○○は、更に顔をほころばせた
『うわぁ、美味しそう…』
女子は甘いものに目がないというが、○○もまた例に漏れずこういうものが好きらしい
そして、その金平糖に負けぬほどの甘い笑顔を俺に向ける
『秋斉さん、ありがとうございます』
思わず手が出そうになるのを抑え、慌てて平静を取り繕う
「さ、おぶでも飲みながら食べよし」
盆に乗せられたもうひとつの湯呑に目をやり、茶と菓子を促す
茶をひと口含んだ後、金平糖をひとつ摘まみ口へと運ぶ
それを受け入れた唇が、静かに俺を煽る
まだ少女のようなあどけなさなのに、ふとした仕草に妙に色香があり、その一連の動作から目が逸らせない
…これも惚れた弱味か
『秋斉さん、どうかされましたか?』
無意識のうちに眺めてしまっていたようで、○○から声を掛けられ我に返る
「いや、あんさんがあまり美味しそうに食べるさかい、つい見とれとったんや」
そう答えて笑みを浮かべると、○○は頬を赤く染め、俺から視線を外す
もう、何言ってるんですか、とか言いながら、手にした湯呑を何度か回し、せわしなく口へ運ぶ
からかっていると捉えられたか
それならそれで、今は良い
そう、今は…
開け放した窓から心地よい夜風が入り込み、細く輝く月が美しく弧を描いて部屋を照らす
闇の中に浮かぶ窓に、ふと何かの気配を感じ、気を遣る
…にゃあ~
淵に乗っていたのは一匹の猫だった
最近よく縁側に来ていて、俺の膝の上で過ごす事もある猫
『うわぁ…かわいい』
そう顔をほころばせる○○
いつもなら部屋になど入れるはずもないが、○○のこんな顔を見てしまってはこうするしかない
猫を呼び、部屋に招き入れた
その猫は素直に俺の膝に乗り、くつろいでいる
○○がそうっと近づき、猫を撫でようとしたその時
バリッ
猫が爪を立てて○○の手を引っかいた
『痛っ…』
慌てて引っ込めた手には既に血が滲み、それが白い手に伝っている
思わず猫を窓から放り出し、慌てて○○の手を取る
「見せてみよし」
幸い傷は深くなさそうだ
だが、この娘に傷がついたことがどうしても許せず、俺は一瞬己の冷静さを忘れた
ぺろっ…
考えるよりも早く、俺は○○の手の傷に口を当てていた
『あっ…秋斉さんっ?』
「…消毒や」
引っ込めようとする手をしっかり握り、下を這わせ続ける
しばらくは何とか手を抜こうとしていた○○も、いつの間にか抵抗するのをやめていた
それを確認し、俺は○○の手から口を離して清潔な手ぬぐいを巻いて止血する
「少ししたら止まるやろ」
少しだけ瞳に涙を浮かべた○○が、真っ赤になって向き直る
『あ、あの、ありがとうございました』
体はこちらを向いているが、視線は逸らしたままだ
…無理も無い
おそらく、何事もないと信用していた男に、こんなことをされたのだ
純粋なこの娘には、されたこともない事だろう
さすがに俺も冷静さを取り戻す
「堪忍え、○○はん…」
少し距離を置いて座りなおし、いつもの【楼主】の顔で、声で話しかける
『その、堪忍、はどういう意味ですか?』
○○からの思わぬ問いかけに、ふいを突かれる
『猫が引っかいたことですか?
それとも…この手当てのことですか?』
口調はいつものように優しいが、いつになくはっきりとした問いかけに少々怯んでしまう
俯いて、ぽつりぽつりと紡がれる言葉に、俺は返事をすることもできずただ耳を傾ける
『もし…この手当てのことを謝っているなら…
堪忍なんて言わないでください
私…嬉しいですから』
最後は消え入りそうな声ながらも、俺の心にはしっかり響いた
「嬉しいってどういうことや」
少しの自惚れを自覚しながらも、冷静に○○に問い詰める
『私は…秋斉さんのことが好…』
そこまで言ったところで、○○は言葉を止めた
いや、止まってしまったのだ
なぜなら○○は、俺の腕の中に引き込まれ、抱きしめられていたから…
―傷~続・秘密~前編― 続く