こうした寺作りは

もちろん幕府の後押しあってでした


長崎奉行の長谷川藤広は

幕府の後押しから

長崎 皓台寺から正覚寺と

次々と寺院創建に力を注ぎます


こうした背景から

「笠頭山 洪泰寺」後の

皓台寺が創建となりました



しかしこうした奉行所からの

援助協力を受けるようになっても

住職亀翁の僧もしての

仏法弘道を説くという姿勢に

何ら変わりはありませんでした


こうした亀翁の姿勢から

洪泰寺が今日の皓台寺へと

拡大していったのです


1615年、大阪夏の陣に

徳川家康が勝利をおさめ

家康の頭痛のタネのひとつに

キリシタン勢の存在でした



かつての

長崎のポルトガル寄進時代の

様なことが起こらないか


もし起るようならば一大事です

同じ日本人同士で

仏教徒と異教徒が相争うような

ことは家康の日本統治に

重大な支障を来たしてしまいます


そうした理由からいうと

家康はやはり長崎が

一番問題の土地となります



さて亀翁が住職から身を引き

亀翁の後に誰を

この地の教化させればいいのか

(善行により人々を安寧に導く)


種々有能な側近を集めて

熟慮した結果

かつて亀翁が

首座を勤めたことがある


佐賀玉林寺の住職

一庭融頓をおいて他になしの

結論に達しました



ーつづくー


From Itsuki