こうした事情の中でも

皓台寺の住職であった亀翁は

足しげく長崎奉行所へ

通ったりした形跡はありません


ここが亀翁が亀翁たる所以だと

いわれています

亀翁は仏教がキリシタンに

押されているからと


奉行所にことの相談をしたりと

慌てず

皓台寺住職を引き受けた目的と



当初の目的を果たすと
1613年に
慶長の禁教令が
幕府から出されて

キリシタンの勢力にも
次第に翳りが見えてきました

すると亀翁は自分の後任に
佐賀の王林寺住職の
一庭を迎え自らその席を譲ります

(↓禁教令の高札)


この立ちふるまいなど
まさに亀翁でしょう

この姿は仏教の隆盛を
指示してきた
長崎奉行所 長谷川藤広の
心を捉えました

本来長谷川藤広には
寺作りには自信があったようです


長崎は佐世保の町に
西蓮寺を建てたかと思えば

次は長崎に目を向け
皓台寺創建に力を注ぎ

キリシタンの教勢に
(キリスト教の数や教会などの規模)に
苦慮していた幕府の力となります

(↓皓台寺)

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