靴の下に挟んだ遺書が、風で飛んでってしまいましたよ。 | 「僕はずっと山に登りたいと思っている。……でも明日にしよう…」 残念ながら、おそらくあなたは永遠に登れないでしょう。

靴の下に挟んだ遺書が、風で飛んでってしまいましたよ。

精神の迷宮でゴールが見つからない悩める民達よ!!自殺する前にメタルを聞け!!

 今、世界はどこに向かおうとしているのか。私達はなぜこの混迷を極める時代に産み落とされたのか。戦前と異なり、多様な精神状態(子殺し、親殺しなんてのもある)が共存している今。揺らぐ事のない観念的基軸を掴み取ることは死活問題にまでなりえることだろう。まぁそういう漠然とした疑問というか、不完全な部分があるからこそ、私達は次の行動を起こそうと思うわけである。そういう部分を失うと同時に、死、は存在のすぐ近くにまで忍び寄ってくる。しかしどんな分野においても、完璧は存在し得ないとしたら我々は未完のまま死を迎えなくてはならないことになる。それはあまりに残酷なことではないだろうか・・・。だからこそ見えない完璧な存在、「神」を作り上げることで、人間は安定を得ることができる。多分フロイトが、「宗教は人類の麻薬である」といったが、これはそのまま完璧主義、神、に置き換えられるだろう。

特定の宗教を持たない我らが日本国で、自殺が増えているのは実に必然的だ。おそらく5年くらい日本で生活すれば、寿命以外の人為的目的による死に触れることができる。年間30,000人の人間が消えるってのはほんとに脊髄にガリガリ君をあてがわれたようなヒヤリとした思いがする。

自分も完全に例外ではないが、死にたいと思っている人はもっといるはずだ。ただそれにたどり着くには勇気と、金が必要な場合もあるだろう。しかし。気づきづらいが生きるか死ぬかという選択を我々は常に、どの瞬間でも強要されているのだ。そして、死んでいるよりは生きている方がいい、という積極的な選択ではなく、死んでいるという状態を嫌い、結果的に残った選択肢が生きている、という状態だったというだけなのだ。消去法的生存。選び取った、という意識は微塵もないから時間の概念もなく、なんとなく生活を続ける。それは定義上では生きているが、「死」に近い状態である。

幸い、死をテーマにした芸術に我々はたくさん触れることができる。それらは一瞬でも死を思いとどまらせてくれる力を含有するものだ。

「天才とは、積極的な価値感情を、広い範囲の人々に永続的に、しかもまれに見るほど強く呼び起こすことができる人物」らしい。