ウォーレン・クロマティ氏の認識論 | 「僕はずっと山に登りたいと思っている。……でも明日にしよう…」 残念ながら、おそらくあなたは永遠に登れないでしょう。

ウォーレン・クロマティ氏の認識論

 小学校入学当時。テレビと学校及び通学路が世界だった頃。清原、秋山、デストラーデ、のゴールデンクリーンナップが最も眩い光を放っていた頃。私の当時の外国についての認識はプロ野球を通してのみであった。野球はアメリカが発祥で、チームに二人くらいしかいないのにあれだけ活躍している外国人選手達で全て構成されている、メヂャーリィグという、この世のものとは思えぬ世界がある、ということをオヤジは教えてくれた。

パチョレック、ブーマー、ガリクソンなど、外国人の名前の響きは実に新鮮であった。助っ人である彼らの骨格の違い、遺伝子の違いを大いに感じさせてくれるダイナミックなプレーは、未だ脳裏に焼きついている。

中でも最も鮮明に思い出すのはクロマティ氏、である。何といっても黒、と名前に入っているのだ。これはスムーズすぎる。外国語を日本語として認知すると、時に面白いことが起こることも私は彼から学んだ。

さてさて、クロマティのバッティングは当時としてはメジャーリーグを感じられる数少ない材料の一つであった。

最も衝撃を受けたシーンが、いつかの日本シリーズで、敬遠のボール球を二塁打にした時である。確かにその時のピッチャーの投球は、ホームベースに近く打とうと思えば打てるが、かがんだ打者からすれば明らかなボール球である。黙っていれば出塁できるのに、しかし、彼は打った。敬遠=フォアボールという私の固定観念は完全に崩壊し、敬遠という文字の中には二塁打の可能性が隠れていることを教えられた。…その後約8年後、ドカベンを読んでいる時に似たシーンに遭遇したが、クロマティの二塁打の感動の比ではない。

ここで我々が学ぶべきことは、一見何も失うことなく手に入るかのように見えること(フォアボール)も、視点を少しだけ変えてあげることにより、更によりよい結果を生む可能性が見つかるということである。それは自然との調和を美徳とし、よりよいものは能動的行為からではなく受動的行為から生ずるとする東洋的伝統を汲む、日本人には無理な注文かもしれないが、ここに日米間の思想的縮図を一瞬垣間見た思いがした。まぁ、全て物事は一長一短。しかしこの点はぜひとも見習っておいて損はないのではないだろうか。

国際情勢を野球に置き換えると、日本はアメリカに対しすべて敬遠によって得点をさせているかのように見える。一見勝負していると見せているがそれは逃げ以外のなんでもなく、すべてはアメリカのシナリオ通り、八百長である。

ある状況下において、複数の選択肢を持てる人ほど頭脳的筋肉がある人間といえよう。そして、クロマティは肉体的な力をも併せ持った人として、私が始めて認めた人である。

ウォーレン・クロマティ。私が不二子・F・不二夫 と同程度尊敬する男。