伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 105回・南朝  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 中国の南北朝は5世紀から6世紀160年くらいの分裂の時代を言います。戦国時代もそうですが、南北朝時代も中国史からパクった言い方です。南北朝時代の他に、東晋、南宋、五代十国も中国が分裂していた時代ですが、中国史では南部に本拠地を置いた政権が正統とされる場合が殆どでした。倭五王が朝貢したのは南北朝時代の南朝でした。北朝が侵入してきた塞外民族の国であったのに対して、南朝は全国政権が南遷したものであったり、そうでなくても漢民族の国であったので正統とされて来ました。

 

 日本の場合は、室町幕府も江戸幕府も北朝を正統としてきました。室町幕府は自分が立てた朝廷ですから当然ですが、江戸幕府も、現在の天皇家が北朝の子孫で、室町幕府を通じてであっても全国を統治していたのは北朝であるとして、北朝を正統としていました。

 

 水戸徳川家が大日本史を編纂するときに南朝を正統であるとして、これが頼山陽の日本外史などを通じて在野の読書人に広まりました。明治の初めころは南北朝という表記でしたが、民間から南北朝正閏論が起きて、南朝を正統と認めろという世論に押し切られるかたちで、明治天皇が南朝を正統と決めて、北朝の天皇は歴代から外されることになりました。

 

 これほど実態と異なる決定はありません。現在の天皇家が北朝の子孫であることは勿論ですが、南朝に政権と呼べる実質がなにもないからです。日本の南朝は、東晋や南宋のような統治の実績はなく、清の初めのころにあった南明政権の如きものでした。

 

 南朝は後醍醐天皇が降参したあと幽閉されていた花山院から脱出して、吉野へ逃げて自分はまだ天皇であると宣言して樹立したものですが、全国に散在している皇室領を管理する能力もなく、直属の軍事力もなく、経済的には吉野の寺社に寄生するだけの存在でした。

 

 後醍醐という人は、政治的には無能で、軍事も分からないのですが、配流地や幽閉場所から脱出することだけは得意だったようで、隠岐からも花山院からも上手く逃げ出しています。天皇でありながら妙な才能があったもので、後醍醐に脱出の才能がなければ南北朝の動乱も起きなかったといえます。この人は民間に生れていれば、稀代の牢破りになっていたかも知れません。

 

 軍事的にも経済的にもなんの基盤もなく、世間の支持もない亡命政権なのですが、南朝は60年続きます、どうしてこれほど長期に渡って存続出来たのか、足利政権が足利義直、高師直を失って、政権構想が消滅して、武士団に対する統制力も失ったことによります。