伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第74回 平氏政権  | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 保元の乱、平治の乱に生き残って武家ではひとり勝ちになっていた平清盛でしたが、二条天皇が亡くなり、その周囲にいた天皇親政派は解体し、後白河上皇が院政を再開したものの、無能な廃れ皇子でたいしたことはできないという状態のなかで、清盛は政界でもひとり勝ちの状態になって行きます。

 

 身分が卑しいとされている武家の出ながらも清盛は官位を急激に上げて行きます。清盛自身は自分が白河法皇の子であることを知っていたと思われます、しかし正式に平忠盛の子ではないと言い出すと平家一門が反発します、四男ではあるが正室の長子で本来であれば平氏の惣領になるはずだった頼盛あたりは、忠盛の遺産は自分が相続するから、法皇の子のあなたは別に家を立てたらと言いたくなってきます。

 

 平家一門に対しては忠盛の子であるから一門の惣領だとして振る舞い、世間に対しては法皇の子であることを否定せず、卑しい武家の子ではないから高い官職を得ても構わないと納得させるという、巧妙な使い分けをしていました。

 

 清盛という人は、頭が良く、政界を渡ることに巧みである上に、経済が分かっていて蓄財に長けていて、身分の低い使用人には優しく、他人に対しての気配りも出来る、新政権を樹立するに相応しい人物でした。無能な廃れ皇子の後白河とは大変な違いがありますが、清盛が後白河を圧倒して行くのは当然の結果でした。

 

 高倉天皇は清盛の妻の妹の子ですから平氏系の天皇ですが、藤原氏が行ってきたやり方では、娘が天皇の子を産み、その子を即位させて天皇の外祖父となって、家の中の長幼関係で天皇の上位に位置して、朝廷の組織を支配するということになっていました。外祖父を父親、あるいは祖父に代えて、元天皇が政権を支配したのが院政です。

 

 清盛は8歳の高倉天皇に16歳の徳子を嫁がせます。高倉天皇17歳のときに徳子との間に、言仁親王が生まれます。言仁親王は1歳2ヶ月で即位して安徳天皇となります。高倉天皇は上皇となって院政を始めます。後白河上皇の院政は、その前に治承3年の政変によって停止していました。

 

 後白河の側近たちが鹿ヶ谷山荘に集まって軍事的に平氏を滅ぼそうとした企てがあって、大将に吸える予定だった摂津源氏の多田行綱が裏切って、平氏の六波羅邸に自首するという惨めな展開で潰され、集まりに参加していた者は流罪になり、密談に参加していなかった後白河は罪を問われなかったものの、院政は停止され政治の権限を奪われて仙洞御所に押し込められます。

 

 高倉上皇が院政を行い、清盛が安徳天皇の外祖父として朝廷を支配するという、平氏政権が成立することになります。