桓武天皇 | 夏炉冬扇の長袖者の尉のブログ 

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 伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定 第44回 桓武天皇  

 

 井上内親王と他戸親王の冤罪から殺害に関して光仁天皇が同意していたかどうかですが、いくらなんでも妻と息子の殺害に同意することはないでしょう。同意も拒否も出来ない状態で、擁立した藤原永手らにやられてしまったといった感じではなかったかと思われます。

 

 光仁天皇が能力の乏しい人だったこともありますが、虚弱体質で鬱病気味の聖武天皇でもやりたいことを好きなようにやっています、ここで大事になってくるのは、天皇個人の能力ではなく権力があったかどうかです。

 

 大伴氏、物部氏、蘇我氏と古代豪族が順に力を失って行き、壬申の乱で天武天皇が政権を取ると、有力豪族がいなくなっていたこともあり、大王から天皇に名を変えた天皇家の独裁状態になります。草壁皇子の血筋を引き継ぐのが絶対的な皇位継承の約束事になって、女性天皇を中継ぎにして、文武天皇、聖武天皇、孝謙・称徳天皇が血脈の論理で即位して君臨する体制が作られました。

 

 聖武天皇が大仏と遷都を繰り返す大道楽をやって国家を疲弊させ、孝謙・称徳天皇が藤原仲麻呂に入れあげ、弓削道鏡にのめり込むといった、見境のない政治をやって、天皇家独裁の信用を著しく低下させます。孝謙・称徳天皇が死んだときには、天皇家には自主的に後継者を決める能力がなくなっていました。

 

 そこで藤原永手らに擁立されたのが光仁天皇であり、今までの天皇とは全く違う傀儡的な存在で、蘇我氏の全盛時代に立てられた天皇に戻っていたのです。井上内親王を通じて草壁皇子の血脈になる他戸親王が次の天皇になる約束だったのが反故にされ、草壁皇子どころか天武天皇の血脈ですらない山部親王が皇太子に立てられても、光仁天皇は承諾するしかなかったのです。

 

 近親婚を繰り返した果てに誕生したような文武天皇、聖武天皇、孝謙・称徳天皇でしたが、天智系で血縁が遠い光仁天皇と帰化人の高野新笠の間に生まれた山部親王の登場は、持統天皇から始まった皇室の袋小路に入ったような相続を全面否定するものであり、藤原氏もその新体制の中での勢力拡大を狙っていたのです。

 

 井上内親王と他戸親王の母子は、山部親王に回すために利用され始末されたわけで悲惨な存在でしたが、あまり同情されていないのは、聖武天皇、孝謙・称徳天皇の悪政のとばっちりのような気がします。藤原永手、藤原宿奈麻呂、藤原百川らは、始めから山部親王に目をつけていて、井上内親王と他戸親王の始末は計画通りのものでした。