自分の記憶はいつもがらんとした昼下がりの薄暗い実家の廊下から始まる。

 両親がバブルに便乗して買った新横浜のマンションは、今思うと、狭くて、暗くて、不安な場所だった。

 鍵屋でカスタムして色をつけてもらった青い鍵を提げていると、周囲からは、「気取っている」と言われていた。

 ただいま、と言う癖がなかった。
 誰も居ないところから、おかえり、と返ってくる方が怖かったからだ。
 いつも夜まで、音楽を聴きながら絵を描くか、寝るかしていた。
 もっと幼い頃は、友達の家に遊びに行ったりしていた気がするけど、思春期を迎える頃にはとんと外へ出なくなった。理由が何も無かったからだ。
 それで、夜に兄が帰ってくると、二人で夕飯を食べた。
 そうこうしているうちに忙しない様子で母と、次いで飲み会帰りの父が現れる。
 母の仕事の愚痴を聞くのが日課だった。
 そのあとは、母の関心ごとはもっぱら兄の素行不良に向いた。
 中高一貫の私立校に入った6歳上の兄は、勉学ではない、ましてや家でもないところに居場所を見出していたらしく、しばしば家の中でそれが問題視された。
 兄が怒りを抑えながら、笑顔で母親の言葉を受け流すのを横目に見ていた。
 緊迫した時間を耐えると、今度は、酔った父親が延々と説教を始めるので、私たち兄妹は、夕飯を食べたらすぐに自室に引き返すのが恒例だった。
 酔って気が大きくなった父親が怖くて怯えていると、あいつは頭が弱いとか、知的障害者だと罵られた。泣くと余計に酷くなった。
 母も兄も特に反対していなかったので、自分はそういうものだと思っていた。
 父親は一通り怒鳴り終わると、よく、スーツ姿のまま、赤ら顔で船を漕いでいた。
 母がその横で、疲れたように私に言う。

「あんたが問題を起こすと私がお父さんに叱られるの。」

 そう言わない日は、ヒステリックに皿を割る音とか、兄に向けられた怒号とか暴力の音を聞いていた。

 それでも、知っていた。
 兄が賞を取った絵はいつまでも飾られていて、私が賞を取った絵は、最後まで飾られなかったことを。
 兄が自分の受験の経験を苦にして、私の通塾を辞めさせるように提言していたことも。
 どうでもよかった。
 部屋の扉を開けていると、夜中じゅう「あの子はちょっと頭が弱い」と私を蔑む両親の声と、「得意なことがたくさんある」と言ってくれる兄の声が聞こえた。
 それが嫌で、私はここにいると言いたかった。
 私の知らないところで、私の価値が決まっていた。
 陰口が漏れ聞こえてくるのが嫌で自室の扉を閉めると、何故だか叱られた。
 家族を信用していないとか、鍵が壊れるとか、そんなような理由だったと思う。
 どうでもよかった。
 朝は毎日一人で菓子パンを食べていた。
 子供の頃、パンが嫌いだった。
 でも父が、和食が好きだった祖父に反抗して毎朝パンにしているのだと聞いた。
 どうでもよかった。
 退屈な気持ちで学校に行って、退屈な授業を受けた。
 昼もいつも一人だった。
 魚の食べ方が汚いと、大声で晒されたりするのが嫌だった。
 兄は自分と比べて、魚を食べるのが物凄く綺麗だった。
 どうして同じ兄妹でこんなに違うのかわからなかった。
 兄は有名な悪ガキだった。兄が卒業すると入れ替わりで同じ小学校に入った。
 妹は大人しくて手が掛からないと言われた。
 自分は兄と違って、勉強をして、絵を描いて、ぬいぐるみでままごとをした。
 兄は時々、「そんな遊びをしているのは女々しくて恥ずかしいことだ」と教えてくれた。
 父も時々、同じことを言った。
 恥をかかせるな、迷惑をかけるな。
 一家が誇れる男に、父から祖母を奪い続けた祖父を越える男になれと言われた。
 この“誇り”という概念だけは、唯一、教えてもらって、今も大事にしているものだ。
 だから、両親が誇る兄のようになるのが正しいのだと思った。
 男の子の服を着て、男の子のような趣味で、男の子に混じって遊んでいれば、自分は恥ずかしくない存在になれると信じていた。

 兄は時々、「お前はいいよな」と恨めしそうに呟いた。
 私も同じ台詞を言いたかった。
 この頃にはもう、「叱られたり、殴られることすらない人間」というものの意味を理解していたと思う。

 そういうことが毎日続くと、たまに、どうしても感情が抑えられない日があって、そういう時は大声で喚いて、他の子供達を泣くまで罵ったり、暴力を加えた。両親と同じように。
 自分がこれだけ我慢しているんだから、他の子供も苦しみを味わって当然だと思っていた。
 相手が泣けば、自分は勝ちで、褒められると思っていた。
 女の子の容姿を平気で罵ったし、男の子に平気で殴りかかった。
「謝るならそっちが土下座しろ」とか、「先生だって同罪なんだから私に謝れ」と、宥めにきた教師がウンザリするまで叫び続けた。
 その度に、やっぱり◯◯さんは頭がおかしいんじゃない、と冷やかされた。
 でも、それで、母が心配してくれたらいいとも思った。
 兄の真似をしていれば、子供として扱ってもらえると思った。
 テストで点を取れば取るほど、周囲からは見下していると言われた。
 スポーツを頑張れば頑張るほど、目立とうとしていると言われた。
 話せば話すほど、自分勝手だと言われた。
 自分は周りと違うんだろうと漠然と思っていた。
 それが良いとか悪いとかではなく、ずっと、違う生き物なのだろうと感じていた。
 でも母は私の話を聞いてくれなかった。
 
 ストレス性胃潰瘍になったり、自律神経失調症になった。
 保健室で、「お母さんが迎えにくるからね」と言われた時、血の気が引いた。
「母は仕事で忙しいから、迷惑になるのでいいです」と告げた。
 幼少期は、兄のためにお菓子を手作りして兄の帰りを待っていた母が、私が小学校に進学したのを機に忙しなく働き出したものだから、子供ながらに自分が経済的に負担を与えているのだろうと思っていた。
 保険医に、そんなことを気にする子供は居ないと教えてもらった。
 その後、母からまた恨みがましく、「気を遣うお子さんだと言われた」と皮肉られた。
 体調が悪くなればなるほど、母親は苦い顔をして、自分を家に送り届けたあとはそそくさと仕事に戻って行った。
 お腹が痛くても頭が痛くても、ずっと一人だった。
 猫だけがずっと一緒だった。
 でも猫は喋らないし、寝てばかりだった。
 父は私の体調不良は必ず仮病だと決めつけていたけど、学校を休む理由ができて、内心ホッとしていた。
 父は今でも私の病名を知らない。

 父がよく、「俺に逆らうな」と言っていたので、そうしていた。
 言うことを聞かなければ真夏だろうと真冬だろうと外に放り出されたり、押し入れに閉じ込められた。
 泣き叫んで謝っても許してもらえず、ただひたすら父が忘れるのを待った。

「誰が食わせてやってると思ってるんだ」
「お前なんかうちの子供じゃない」
「俺を怒らせたらお前らは学校にだって行けないんだぞ」

 それが父の決まり文句だった。
 今思えば、何て必死で、幼稚な言葉なんだろうと思う。
 私も兄も、多分、両親が望んでいた“理想の子供”ではなかった。

 毎晩毎晩、遠いリビングの灯りの下で繰り広げられる怒号の応酬を聞かないふりをしていた。
 兄が独り立ちすると、両親はいよいよ私のことを気にしなくなった。
 朝も昼も一人で食べて、夜は両親の酒のつまみを貰っていた。

「お兄ちゃんが居ないからねぇ。お兄ちゃんが居れば、頑張って料理するんだけどねぇ」

 その時にようやく、この家は兄が居たから、せめて“歪んだ家族”の形を保っていたんだと思った。
 自分の存在は、家族にとって何ら影響を与えないことを知った。
 自分があまりに無力で、非力なことを思い知った。
 何も知らなかったし、何もする気が無かった。
 頑張れば、自分程度が抱えている問題なんて、全て解決するのは分かっていた。
 料理だって洗濯だって何だって、今すぐにでもやれば良かった。
 でも、自分程度のことに頑張る気力も湧かなかった。
 せめて私と兄を苦しめた罰に、両親は一生そうやって、忙しなくしていればいいと思った。
 私のために、無駄な時間と労力を使い続ければいいと思った。

 

 

 

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