友人は「お前が犯罪を犯していないのは奇跡だ」と言う。
 

 実際、私自身もそう思うし、奇跡が起き続けているからこそ、私は犯罪に手を染めずに済んでいるのだと思う。
 

 私には生来の発達障害と幼少期の家庭内不和、それらを起因とするコミュニケーション・共感能力の低さがある。


 サイコパスと定義される人の特徴に当て嵌まるかどうかは分からない、恐らく違うとは思うが、彼等の特徴が「目的達成のために手段を選ばず、良心の呵責を覚えない(あるいは優先しない)」であれば、共通する部分を多分に有していると思う。
 

 私は発達障害に加えて、アダルトチルドレンで、愛着障害で、躁うつ病で、パニック症候群で、セクシャルマイノリティでもある。世に言う社会不適合者で、所得なんて高校生のアルバイトよりも低い。自分一人で生活することすらままならない。
 

 自分の感情をコントロールする術に乏しく、子供の頃から癇癪を起しやすい。普段、無表情で耐えて、沈黙し続け、ある日爆発する。
 

 そういう時に真っ先に思いつくのは、他人を傷つける手段だ。
 

 私は言葉だけで他人を傷つけられる。両親から学んだ、相手を蔑み、貶める能力に長けている。相手の本質を掴み、一番言われたくないことや、欠点や短所、コンプレックスを言い当てるか、まるでそのように押し付けて話すことが出来る。
 

 例えば、私が幼少の頃、両親はしばしば私を「知恵遅れ」と呼んだ。
 

 当時は意味が分からないなりに侮蔑されたのを感じ、絶望し、憤り、今なお執念深く覚えている。どっこい、「知恵遅れ」は事実だったのだから、お笑い種だ。落語にでもしてくれ。
 

 始終眠そうにぼうっとしていて、自分の感情が上手く伝えられず、運動能力に欠け、子供らしからぬさめざめとした泣き方をする。なるほどそう形容したくなる気持ちもわかる。最も父は、多少喋るのが遅い人でもそう表現するので、他意は無かったのだろう。
 

 けれど私にとっては、最も傷付く言葉だった。
 

 駅伝で好成績を残すような有名大学を出て、夜遅くまで働きづめの両親と、私立大学付属の中高一貫校に通う、親族の間でも聡明だと持て囃されている兄の明確な“下”に居るのが、何の特技もない「知恵遅れ」の自分なのだと。
 

 何をやっても「出来て当たり前」で、特別なできごとは「忙しいから後回し」だった。
 

 だから、私はペットのような扱いで丁度良かったのだろう。
 

 それについては今更何も感じないし、本題とは逸れるので置いておく。
 

 ともかく、私はそういう選択をした人たちの血を引いている。
 

 無論、親族を犯罪者呼ばわりするつもりは毛頭ない。純然たる事実として、知り得る親族の中に犯罪者は存在しない。
 

 だが私の中には、家族を見習った“他人を傷つける”という選択肢が存在している。
 

 同級生から容姿や言動のおかしさを揶揄われた時は、カッとなって相手を突き飛ばしたり、蹴ったり、首を絞めたり、大きな声で罵声を浴びせたり、石を投げつけたり、自分の感覚過敏が制御できず、やはり癇癪を起した時は、声の大きい同級生に飲み物をぶっかけた。先輩相手にキレて、学校のロッカーを蹴りつけて変形させたこともある。椅子や机は八つ当たりの恰好の対象だった。
 

 そも、我が家の家訓は某ドラマが流行る前から、「やられたら三倍にしてやり返せ。」というもので、一方的にやられて帰ってこようものなら、腰抜けだと謗られたのだ。
 

 結局、私は家でも学校でも、“やり返すこと”でしか自分の尊厳を守れなかった。
 

 幸いにして私の癇癪が数年に一度だったこと、幼少期の女児の体力(それも発達障害で極端に運動能力が低い)で、相手が大きな怪我をしなかった為に、大事になることはなかった。
 

 だがそれは思春期になると、行動ではなく言葉に変わった。
 

 移り変わる人間関係の中で、私は一体何人の人に、「お前は頭が悪いから話をしたくない」「ブスは黙ってろ」「傷の舐め合いで気色悪い」「鬱陶しい」「下らない」「興味が無い」と発言してきただろう。
 

 つい最近も、友人の幸福と、自他境界の侵略に過剰に反応し、長文でお気持ちメールを送りつけたり、相手からの情緒的な要求を無視したばかりだ。
 

 対面ではなくても、間接的に、私に非難・否定された覚えがあるという人は枚挙に暇が無いのではないだろうか。よくも今日まで刺されなかったものである。それもやはり、私に起きている奇跡という名の存在の希薄さなのだろう。家庭内と同じ役割が、奇しくも社会でも発揮されているだけだ。
 

 私は上記した件について、その一切を反省していない。
 

 どれも私の尊厳を傷付けられたのだから、報復して当然だと思っている。
 

 むしろ、私は、一度でも相手に恨みを抱くと、【報復しなくてはいけない】という使命感に、頭も体も囚われて、いっぱいになってしまう。
 

 全身が痙攣して、動悸が止まらず、絶えず頭が回り続けて、相手がうんざりして、私が納得するまで止められない。
 

 そのくせ、相手がしおらしくなると、罪悪感が襲ってくる。何でこんなことをしたのか、自分でも分からなくなる。
 

 私はどうやら、感情という情報を統制する機能に欠いているらしい。
 

 私にとって情報や、目の前のタスク、感情といったものは、ゲームのパックマンの“エサ”をイメージしてもらえると分かりやすいだろうか。
 

 膨大な数のエサが等間隔に並列しているのに、パックマンは目の前のひとつずつのエサしか食べられない。食べ続けて、壁にぶつかってターンするなり、モンスターに邪魔されない限りは、止まることもできない。それが私の脳内だ。
 

 ムカつく、というエサを食べる。すると私は“ムカつくというエサを食べたモードのパックマン”になる。
 

 ムカついたモードでは、拒絶する、罵倒する、非難する、が進行方向に並んでいるので、それらを順に消化していく形になる。(ただ漫然と情報を食い続けるだけ。というのは、オタク気質にも表れているだろう。)
 

 だので、止めることが出来ないし、食べたらケロッと忘れてしまうのである。
 

 そのとき、どう思いその行動を取ったのか、は説明できる。だが、それは何だか自分が主役の怪獣映画を観ているような感覚で、はっきりとした情緒の動きとしては認知することができない。所謂解離現象なのだろうが、恐らくこれらが正しくフィードバックされるようになると、私は今度こそ自我が崩壊して、無差別に暴れ回る狂暴な犯罪者へと成り果てるだろう。
 

 私は小学校高学年から三日に一度は登校拒否し(起立性調節障害を患っていたが、それが学校のストレスから来るものなのか、それとも病気のせいで行けなかったのかは、卵と鶏の関係である。)、中学二年生に上がったばかりから、卒業まで、殆ど学校に行くことは無かった。
 

 学校をサボって何をしていたかというと、浪人生だった兄とひたすら映画やアニメを見ていた。
 

 その体験は私にとって貴重で得難いもので、後年の人生によくよく影響を与えたように思う。
 

 映画やアニメのヒーローが教えてくれたのは、“他者を傷付けずに自分を守る方法がある”ということ。
 

 そして、自分の人生とヒーローの戦いを見比べた時、“私の人生にそんな甲斐は無い”ということだった。
 

 まず、私が愛したヒーローたちは、愛や勇気ではなく、自分自身の中にある大切な信念や誇りを守る為に戦う者たちだった。


 『カウボーイ・ビバップ』のスパイク。『スクライド』のカズマ。『RAVE』のハル。『王ドロボウJING』のジン&キール。『コンスタンティン』、『ブレード・ランナー』のデッカード刑事。
 

 彼等は確かに暴力で自分以外の存在を降してきたが、その根底は“自分らしく生きる為”であり、暴力は単なるその手段だった。
 

 そして私は一時、夢を持った。夢を抱いている間は、それが精神的支柱という言葉であることを知る前から、自分の中を支えてくれる大きな柱だと心象風景的にも認識していた。
 

 後々気付いたのは、それは夢ではなく願望で、ただ私は切に、「自分ではなくなりたい」と思っているだけであった。
 

 夢を叶えれば人から慕われ、同じ悩みや能力を持つ人と関わり、好きなことをしていい。そう思っていた。
 

 現実は違った。それはあくまで願望であり、拙い、幼い夢想だった。それを知る頃、私は毎日自殺を考えるようになっていた。
 

「大量に飲酒して、真冬の公園で寝れば凍死できる」と思い、せっかくならド田舎に行こうと、名前も知らない路線の電車に乗り、どこかもわからない駅に向かっていた。
 

 乗車中絶えず泣きながら、思いつく限りの友人たちに最期のメッセージを送ったきり、スマホの電源を落とした。専門学校と家族からの連絡も全て無視して、もう帰らないつもりだった。
 

 車輌内の空席が目立つようになってきた頃、窓の向こうの夜景に身を縮めて泣きはらした顔を晒している自分の姿を見て、何かがおかしいと思った。
 

 社会は私を要らないという。不良品だという。欠陥品だという。
 

 私は私を侮蔑した人間のことは絶対に忘れない。
 

 私にとっての最大の復讐こそが、私を排泄したがっている社会にふんぞり返って生き続けることなのでは、ふと思った。
 

 私が生き続けられないと思っている馬鹿どもに、数年後、数十年後に、「お前の思っていた通りになんかならなかった」と突きつけて中指を立ててやるのが、最も優れた報復だと考えた。だって、誰も私の幸福や健康を望んでいないのだから。
 

 これを思い出して書いている今でも、頬が紅潮して、手指が震える有様だ。
 

 だからまずは、健全で幸福に生きることが私にとっての社会への復讐に他ならないのである。
 

 次に、夢だと思っていた何かを手放した時、私の中には何も残っていなかった。
 

 叶えたい願いも無ければ、ヒーローを脅かすヴィランが抱える深い心の闇のような、燃え上がる情念たるものが、何一つ存在していなかった。
 

 せいぜいが生きているぞ!と叫びたいくらいで、他に欲しいものも、いらないものも、思いつかなかった。魅力的なヴィランやサイコパスのような、「何をもってしても代えがたい目標」が無かったのである。
 

 貫くべき正義も、守りたいものも何も存在していないのだ。
 

 ただ漠然と“今”を生きて、そこに在る、あるいは無い、“虚無”を噛み締めていた。
 

 今度は死なない代わりに、毎日自分を責めた。夜、ベッドに入ると、自分の全身を槍で貫くようなイメージで、役立たずの穀潰し、成り損ない、知恵遅れ、不孝者、と強く強く念じた。たぶん、そうしないと自分の認知の整合性が取れなかったのだろう。
 

 何せ、昨日今日まで目標(だと思っていたもの)に向かってずっと手を伸ばし続けていた人生だ。それまでは恐らく、半生といっても過言ではなかった。
 

 それが突然失われて、さあ幸福になっていいですよ、と、いくら自分で定めても、受け入れる土壌は育ち切っていない。価値観は変わっていないので、“何かを成せない自分=無価値”なのである。
 

 いっそ人の多いところにでも行って、ナイフを振り翳すなり、人々を扇動してテロを起こすなりして、さっさと死刑にでもなれば楽かもしれないと思った。三食つきだし、今より規則正しく生活できるだろうとも。
 

 しかし、私は何を思ったのか、映画やアニメを見て、趣味で小説を書き始めていた。
 

 内容は、魔法学園に通う女の子と、魔族の青年のラブコメという、私の人生からはおよそ出力されそうもないポップなものだった。
 

 けれど私は、そこに願いを込めていた。
 

 自分と同じような子供が、誰かが、これを読んでくれればいいと思っていた。
 

 作品には私の趣味と哲学をこれでもかと詰め込んで、“君は一人じゃない”と伝える為に、たくさんの自分に似た、それでいて正反対の愛らしいキャラクターを作って、活き活きと活躍させた。
 

 私は創作に没頭する過程で、「では、私がそうしない理由とは何ぞや?」という疑問から、人間の暴力性や欲望の果てのなさに興味を抱き、凶悪犯罪やオカルトに傾倒した。といっても、素人の浅知恵の域は出ないが。
 

 そこでもやはり、凶悪犯罪者たちから醸し出される「強烈な執念」について学んだ。私には、それが欠如していると。
 

 私は、彼等とは違い、他者を支配するような自我も、力を誇示したい自我も、傾倒している思想も無い。追及したい快楽も無い。社会に対する訴えも持っていないことに気付いた。素人なりに、むしろ彼等にはそういった“鬱屈した日々から抽出された内なる大きな衝動”と、“それを達成した時のカタルシス”をこそ重視しているのではないかと考えた。
 

 それに、私が犯罪を犯せば、私が大好きなゲームや漫画、映画の続きを見届けることが出来なくなってしまう。
 

 自殺を考える前は、「あの世にTSUTAYAとBOOKOFFないなら死ねない」とまで考えていた私が導き出した答えは、とあるキャラクターの言葉をそのまま借りると、「人間はどうでもいいが、人間が創り出したものに価値はある」というものだった。
 

 だから私は、もう死ぬことは考えない。自分を責めることはあっても、どんなに評価されなくても、どこかに居る誰かが自殺を思いとどまってくれるように、願いを込めながら小説を書き続けている。
 

 今でも、犯罪心理学への興味は尽きない。もし金銭的に余裕が出来れば、大学に入って専門的な知識を学びたいし、凶悪犯罪者に寄り添い、犯罪そのものの起源を解明したいと思う。
 

 しかしそれと同時に、私が大学で専門知識を学んだら、稀代のマッドサイエンティストとして悪名を世に憚らせてしまうかもしれないという杞憂もある。もし私が機械と生体を結び付けて人間の脳派を解明しはじめたら、シリアルキラーが生物を殺す際にどれだけのセロトニンとアドレナリンが分泌されるのか実験しまくってデータを取る、とかしていたと思う。生体コンピューターや、サイバネティック義肢の開発にも取り組んで、平気で生きた人間に機械を繋いでいたと思う。
 

 もし私が犯罪を起こすとしたら、それは、この世界に飽きたか、それこそ強烈な使命感に囚われた時になるのだろうと思っている。本当に世界を変えなくてはと思った時、私は一切の良心の呵責なく、人を陥れ、暴力を行使し、恐怖でこの世を真っ新にする支配する予定だ。
 

 これはあくまで“犯罪を犯さない人間の心理”である為、犯罪心理学的には何ら意味の無い、ともすれば中二病を引きずった妄想の片鱗であると受け取られるであろうことも十二分に理解できる。
 

 けれど、知っていてほしい。
 

 映画やアニメ、漫画、ゲーム、小説といった創作物に救われている弱者が居て、そしてそんな人間は、ふとした拍子に、全てを擲って、凶悪な暴力を振り翳すことに何の躊躇いも持ちえないということを。
 

 共感性の低さや、社会での孤立を苦にしているがゆえに、PCやスマホに張り付いているのだということを。
 

 私は京アニ放火事件の一件を、悍ましいの一言で片づけることが出来ない人間だ。彼は間違いなく、こちら側の人間だとすら思ってしまった。私がああならないとは言い切れないと思った。
 

 誰かが、「やめなよ。」と、「あなたはおかしいよ。」と、一言でも声を掛けていれば、何かが変わっていたのかもしれない。
 

 犯罪行為を擁護するつもりは一切ない。
 

 けれども、本当に、犯罪者は、後ろ暗いものを抱えた人たちは、私やあなたと一切関係の無い人たちなのだろうか。
 

 どんなゲームのモンスターも、開発者によって「そうあれかし」という役割を配分されて存在している。
 

 私は20年以上経った今でも、小学校の同級生や家族に罵倒され、報復に彼等を殺しまわる夢を見続けている。
 

 “奇跡”は誰にとってのものなのか。誰が誰を生かしているのか。殺しているのか。
 

 これを最後まで読んだ人は、少しだけ、考える時間を設けてみてもいいかもしれない。

 

 

 

 

 

終.