午後1時半に目が覚めたが眠い。また寝てしまう。午後3時近くに起きた。

 

 5時頃、ケイを連れてスーパーに行く。途中で、ケイが足を踏ん張って、前に行くのを嫌がった。先週、駅の向こうにある肉屋でとんかつを買って帰ろうとしたら、足を踏ん張って嫌がった。もっと遠くまで行きたいらしい。その向こうにはFというスーパーがあるのだが、そのスーパーで不愉快なことが2回あったので、行きたくなかったのだが、ケイが行きたがるので、行くことにした。

 

 また別の日、万代から帰るときに、行きに通った人の多い通りを通って帰ろうとしたら、足を踏ん張って嫌がった。それで人の少ない裏通りを通って帰ってきた。(この日、ケイは人の家の門の前でウ○チをした。裏通りを通ると、ケイは高い確率でウ○チをする。だから、万代の帰りに裏通りを通るのは嫌なのだ。)ケイは、それらの場合に自分の思い通りになったので、味をしめたのだろう。しかし、今日は引き返すわけにはいかないので、ケイを引っ張って前に進んだ。やれやれ。

 

 帰宅後、夕飯を作る。鶏肉の南蛮漬け。金曜日に大量に作ったミネストローネが半分残っていたので、それを出すことにする。昨日のコロッケの残り。残り物ばかりだな。

 

 

 妻は文句を言わなかったが、どうも貧相だな。

 

 さて、権威主義的パーソナリティの話をします。

 

 権威主義的パーソナリティの主要な特性は因習主義、権威主義的従属と権威主義的攻撃である。

 

(1) 因習主義

 因習主義は、自分の所属する集団の諸価値への盲目的な屈従である。当該諸価値は、当人に外から強制的に押しつけられているものであり、真の意味では当人の心に内在化していない。因習主義は、自分の自発性を放棄し、集団の慣習や諸価値を受け入れることを意味する。因習主義は、当人の育った環境のために、自分の内面の良心を健全に発展させることができなかったことと相関していると思われる。

 

 権威主義パーソナリティの人(以下「権威主義者」と呼ぶ。ここで言う「権威主義者」は、決して単に権威を尊ぶ人のことではないので注意してください。)は、その価値観に違反しているという理由で、貧しい人々、同性愛者や異民族を道徳的に(道徳的理由が存在しなければ理由をでっち上げて)攻撃する。

 

 権威主義者は、価値観が内在化していないので、共産主義の正統派からカトリック教徒へと転向するように、自分が盲従する価値観が正反対のものに変わることもある。(藤岡信勝が共産主義者から国家主義者・軍国主義者に転向したのはよく知られている。)

 

(2) 権威主義的従属

 権威主義的従属は、自分が所属する集団の権威者(両親・年長者・指導者・超自然的な力など)への盲目的追従や、強力な指導者を求める願望を表す。それは、均衡の取れた敬意ではなく、屈従への誇大な欲求であり、権威主義のマゾヒスト的特性を表している。

 

 権威主義者は、自分にとっての権威者・指導者と同一化することで、心の苦しみから一時的に逃れることができる。

 

 権威主義的従属は、因習主義と同様、外的なものへの屈従であり、それは、自分の内面の良心を発展させることができなかったことと相関していると考えられる。それゆえ、権威主義者は、権威に対する敵意や憤激を心の底に押し込めている。その敵意は次の「権威主義的攻撃」で発動する。

 

(3) 権威主義的攻撃

 権威主義的攻撃は、常に喜びを放棄するように強制されていて、厳格な抑圧の下にある人が、腹いせをする対象を求めることを表す。権威主義のサディスト的傾向を表す。自分が認める権威に対して何の批判も口に出せない人は、権威の諸価値に反する人々を非難し、排除し、懲罰を加えたいという願望を持つようになるのである。

 

 以上の3項目が、権威主義的パーソナリティの中心的特性である。しかし、ほかにも派生的な特性がある。それを以下に述べる。

 

(4) 反内省性

 権威主義者は、心が常に葛藤状態にあり、また無価値感に打ちのめされていて、屈辱感や憤怒が渦巻いているために、心の中を見ようとしない。また、同じ理由で、自由な精神や想像力に欠けており、また自由な精神を無価値と見る傾向がある。

 

(5) 迷信とステレオタイプ

 権威主義者は、反内省性の場合と同様、心が常に葛藤状態であり、自分が制御できない憤激や攻撃衝動が自分を乗っ取ってしまうことや、ひどい抑鬱や罪悪感が自分を押し潰してしまうことを恐れているので、人間を超えた力が世界を支配しているという考えに飛びつきやすい。

 

(6) 権力と「剛直 (toughness)」

 剛直さを良しとするのは、上述した、常に外的な圧力の下にあり、葛藤を抱えた自分の心の弱さを反映しているからであり、また、自分が期待されていることを達成するのが困難であるからである。権威主義者は、人々の関係を「強者-弱者」「支配-従属」「指導者-信奉者」というカテゴリーで見る傾向がある。権威主義者自身は、大抵、自分を弱者・失敗者と見ているのあるが。

 

(7) 破壊性とシニシズム

 権威主義的パーソナリティは、心の底に強い攻撃衝動を潜ませている。その攻撃性のはけ口の一つは、外集団(国内の少数民族、貧しい人々、同性愛者など)である。この深層の強力な攻撃性は、道徳性とは無関係な所で自己を表出する。それは、人間一般への侮蔑である。つまり「人間はみな野卑である」とか「人間の本性から言って戦争は決してなくならない」といった、人間の持つ特性への軽蔑である。

 

(8) 投射性

 権威主義者は、自分の心の底に押さえ込んだ、自分の意識に上らせ得ない衝動を他者(彼が弱者と思う者たち)に投射する。それは性的衝動や人間への激しい攻撃衝動である。

 

(9) 性

 権威主義者は、心が健全に発達しなかったために、当人にとって性的衝動は扱いに困るやっかいなものである。権威主義者は、性的衝動によって悩まされ、自分の衝動が暴発するのではないかといつも恐れているがために、性に関する慣習に違反する者たち(同性愛者、性犯罪者)を懲罰したいという強い願望が生じる。また、性的放埒に対する欲望を他者や他民族に対して投射することになる。

 

 8月6日(土)に書いたように、権威主義的パーソナリティの研究は、ドイツのナチズムを支持した人たちの人格特性を調べるために始められました。その理論は、ナチズムの信奉者の人格や行動をうまく説明しました。

 

 7日(日)に書いたように、現在の先進国が全体主義になる可能性はほとんどありません。しかし、権威主義者は現在でも民主主義に対する脅威です。現在の日本は、少数の人間と大企業が富を蓄積し、国民の大部分が低賃金で働き、労働者の4割が非正規労働者で、雇用主の意のままに解雇されてしまう不安定な状況にいます。こうした状況であるにもかかわらず、政権与党は、労働者の賃金を上げるための施策をとりませんし、法人税を下げ続けて、歳入の不足を消費税率の引き上げで補っています。

 

 こうした政策を続けながら、彼らが政権の座から滑り落ちないのは、主要メディアの政治部記者たちが(記者クラブ制度の維持によって)自民党と癒着していて、彼らに取って不都合な質問をしないし、記事にしないからです。

 

 現在の自民党の大部分の代議士は権威主義的パーソナリティです。貧しい人々を救い政策をとらないし、外国人研修制度によって外国人労働者がひどい目に遭っていても、それを改善しようとしないのは、彼らが弱者(貧困層・少数民族・外国人労働者)を侮蔑しているからです。

 

 麻生太郎がその侮蔑をしょっちゅう口にしています。彼が数十年もそうした「失言」を繰り返しても、自民党の大派閥の長でいられるのは、この国のメディアが、その失言を単に誰かの感情を傷つけたという観点でしか報道せず、そのような発言をする人物は民主主義国の政治家にふさわしくないと大々的に批判しないからです。主要メディアの記者たちは自分の役割を放棄しているのです。

 

 ロシアを見てください。プーチンは自分を批判するすべてのメディアを弾圧し、非合法化して、自分の独裁を強化しました。プーチンとその取り巻きたち、オリガルヒだけが富裕になり、ほかの大部分の国民は貧困状態に捨て置かれています。これは日本の行く末です。違いは、主要メディアの政治部が、弾圧されてもいないのに、自ら自民党の提灯持ちになっていることです。

 

 日本をよくするために必要なことは、自民党の政策を批判し、自民党を政権の座から引きずり下ろすことですが、そのために必要なのは、自民党の代議士の大部分が権威主義的パーソナリティであることを国民に分かってもらうことです。

 

 権威主義的パーソナリティの人は、弱者を侮蔑し、自分以外の人を自分の目的を達成するための手段にしか考えていません。

 

 上述した権威主義的パーソナリティの特性には入っていませんが、彼らには道徳的統合性 (moral integrity) が欠けています。つまり、嘘をつくこと、人をだますこと、発言と行動が矛盾することを何とも思っていないのです。嘘がばれたら恥ずかしいと思うだけで、嘘をつくことに罪悪感を感じません。

 

 小泉純一郎が首相だったとき、かつて彼が議員に落選したときに、彼を形式上社員として雇ってくれて給料を払ってくれた実業家について記者が質問したとき、彼は「近々お墓参りに行こうと思う」と言ったのですが、のちに実際にはその人はまだ生きていたことが分かりました。小泉は恩を受けた人と連絡を取っていないだけでなく、お墓参りに行こうと思うという嘘をついたのです。彼はその人物を利用しただけで、恩を受けたとも思っていなったのでしょう。日本以外の先進国なら、マスコミからひどく攻撃されて、公の場で謝罪しなければならなかったでしょう。その後、日本以外の先進国なら、そのような人物は彼の政党内での地位も脅かされたはずです。私的なことについても嘘をつく人は、政治家にふさわしくないし、首相にはなおさらふさわしくないからです。

 

 小泉は労働者派遣の制限を非常にゆるくしてしまい、その結果、現在、労働者の4割が非正規雇用です。(そして企業は簡単に労働者を解雇できるようになり、利益が上がりました。)しかもセーフティネットを拡充しなかったので、労働者たちが失業したら、短期間の失業保険と、無一文になったときの生活保護しかないのです。こうした非情なことをやれたのは、なおかつ恩を受けた人のことで平気で嘘を言えたのは、彼が権威主義的パーソナリティで、心の中で弱者を侮蔑し、自分以外の人間をただの自分の目的を達成するための道具としか見ていないからです。

 

 国民の多くが貧困に苦しんでいても、7人に1人の子どもが貧困状態で、食べるものに困っていいても、自民党の政治家たち何とも思いません。私は、国民に、自民党の代議士の大部分が政治家として不適であることを知ってもらいたいのです。

 

 欧米の先進国では(トランプ以後のアメリカは別ですが)、政治家が嘘をついたことが報道されれば、その人の政治家としてのキャリヤが傷つきますし、嘘が政治に関わることなら辞職せざるを得なくなります。

 

 また、特に道徳的統合性 (moral integrity) を欠く行為や発言は許されません。自分が課した制限を自ら破った、イギリスのジョンソン首相がやめざるを得なかったことのはそのためです。これこそが民主主義なのです。

 

 少数民族に対する侮蔑的な発言が報道されれば、その場合も辞職することになります。イギリスには、ユダヤ人を侮蔑する発言をして、辞職した国会議員もいます。

 

 日本では麻生太郎の「失言」のような、人を侮蔑する発言は、それが人を傷つけたという理由で非難されますが、日本以外の先進国では、そうではありません。少数民族を侮蔑する人は、政治家に不適であると判断されるのです。日本のように、政治家が「誤解を与えた」などと、謝罪にさえなっていない言い訳をして、嘘をついたや人を侮蔑したことの事件が終わってしまうのとは全然違います。

 

 欧米先進国では、権威主義的パーソナリティという言葉は使用されませんが、そうした人格特性の人を政治家から引きずり下ろす社会的制度ができているのです。それはどこにも成文化されていませんが、厳然と存在する制度なのです。

 

 日本にはその制度がありません。そうした制度を作らなければ、日本は本当の民主主義国にはなれないでしょう。

 

 もし、ここまで読んでくださった方がいらっしゃったら、心から感謝いたします。ありがとうございました。(^_^)