どーも、Wunderです

今日は、特別支援学級に在籍する生徒への支援について書こうかと思います

発達障害をもつ生徒たちは、学校生活で様々なミスを犯します。忘れ物が多かったり、段取りを描けず行き当たりばったりの行動が多かったり、思い通りにしようとする行動が強烈であったり、などなど。

私もそんな特性もちです

これは脳の情報処理の容量不足や、電気信号の流れ方のぎくしゃくさから、熱意や努力ではどうしても解決が難しい問題です

こういった生徒に対して、強い叱責や罰を課す方法で何とかしようという先生もいます
そしてこれは一定の効果を持ちます

やはり誰でも、「もうこんな怖い思いはしたくない」「もうこんな苦しい思いはしたくない」という出来事が刻印されると、記憶に残りやすく、不適切な行動が減る、ということは言えるのです

しかし、この方法には限界があります

叱責や罰が発生する出来事や相手に対しては、不適切行動が減りますが、それらを伴わない出来事や相手に汎化していくことが、まずありません

そして、その生徒のあらゆる不適切行動に対して、叱責や罰で解決しようとしても、そもそも脳の容量不足から問題が発生しているが故に、恐怖でいくら刻印付けを行っても、取りこぼしがどんどん出てきてしまうようになります

こうなると、叱責や罰を重ねても、本人は「できない」という別の刻印を刻み続けることになり、結果、無気力になったり反発的になったり、問題を「回避」しようとする戦略で、状況に対処するようになっていきます

さらに、以下が最もまずいことだと思うのですが、叱責や罰により、かろうじて適切な行動を身に付けた(かに見える)状態で卒業した後、社会に出てから、実は問題が別の形で再燃する可能性が予想されます

発達障害者が、定型発達者が多く所属する一般枠で就労した場合、3年以内に、配属部署の同僚から、いじめやいやがらせ、無視などの排除行動をとられるケースをよく耳にします(というか私も長年にわたり食らってきた側ですが)

これには様々な要因がありますが、そのうちの一つに、「言われなければ、行動できない」「注意されたときだけしかやらない」といった行動パターンがあります

一般枠で生き延びるためには、同僚の発言から「自分が当然分担すべき仕事」を読み取り、「では、その部分は私がやります」など、明言されなくても察して役割を引き受ける必要があります

そうしなければ、お互い察し合って負担を分かち合っている定型発達者の中で、自分だけ(知らず知らずに)あまり負担を背負わない状況が生まれ、最初は(なんだ、こいつ?)と不審に思いながら我慢して負担を背負っていた定型発達者たちも、いつまでも負担を背負おうとしない発達障害者に対して、我慢の限界を超えて、排除行動に移る、ということになります

実は、私はこのことを自分のかつての職場にいた別の発達障害者(と考えられる)同僚の行動を見て知りました

私よりさらに察しが悪いその方は、指示された仕事以外、「まるで何も仕事が存在しない」かのように、何もしませんでした

繁忙期で周りがあたふたと仕事をこなしているときも、そんな気配など全く気付くことなく、先に帰ってしまうことも多々ありました

その方は、排除されました。もちろん、目に見える露骨ないじめではなく、大人流の巧妙な方法で

包み隠さず言えば、私も排除行動に加担しました

年度当初の役割分担で、その方と組んだ仕事で、その方は何もせず、やんわりと声をかけても気づかず、結局、私がほぼ一人で負担を背負うことになり、強い不満がありました

今ではそのことを後悔しています
自分もたくさん、やられた側なのに、その辛さを分かっていながら、加担したのですから

しかし、その当時は、いっぱいいっぱいの仕事の中で、許せない、という気持ちを抑えることができませんでした

でも、こういう経験をしたがゆえに思いました

ああ、私に意地悪をしてきた定型発達者も、きっと同じような気持ちの中で、私に意地悪をしていたんだと

責めることはできない

自分が、知らず知らずに、周りの方に迷惑をかけていたのですから

でも、そこのところが、発達障害者(の自分)には分からないのです

話を戻しましょう

「言われなければやらない」「注意されたときだけしかやらない」
これは、叱責を手がかりに行動のブラッシュアップをしてきたツケが回ってきているというのが私の考えです

学校生活では、このことで、不適切行動が目立たなくなっていったとしても、自分で問題点を感じて、自分で修正をしていく、というスキルがまるで伸びないまま、社会生活に突入してしまいます

社会に出ると、直接的に叱責されることは相当少なくなります
みな、暗に示す形で責めるのです
これを感じ取り、最低限の責任を背負えるようにならなければ、周囲との軋轢を招きます

おそらく、叱責や罰で、発達障害者の行動を「見事に」統制できた先生は、落ち着いた生徒を見て、満足することでしょう

でも、この先に大きな落とし穴があります

私は生徒支援において、以下のことを心がけています

その子の脳の情報処理の容量やぎくしゃくさが、どの範囲にどの程度の影響を及ぼすかを、ていねいに見取ること。
そして、出来るだけ「無理をしない形で」社会的に妥当な行動パターンを身に付けられような、方策を本人と一緒に探すこと。
それから、「パターンを身につける」ということに慣れ、それで「うまくいく」という実感を感じてきたら、少しずつ、次に身につけたい行動パターンをどう実現するかを、本人に考えさせること。
そして、(ここが重要!)本人が考えた方策が失敗してくれること。幾度かの失敗ののち、成功すること。そうなるように、ケアしたり情報提供をする「伴走者」でいること。

なによりも、当人が「無理をしない方策」を手に入れることが大切だと私は思います。

なぜなら、私たち発達障害者は、どうやっても、生活にも人間関係にも仕事にも、相当の無理をしなければならないからです。それなのに、「無理」を重ねた方策をもつことは、いずれ近い将来に、自分の心身をむしばんでいくことにつながります。

そして、当人の「失敗」を望むのは、発達障害者は社会生活の中で、どんなに頑張っても人の百倍は失敗することになるからです。
失敗しても、さっさと切り替えて、次の方策を考える、そういう意欲や打たれ強さを育むことがとても大切だと思います

失敗は当たり前、でもめげない、色々な方法を試す、考える、試す、その心を伸ばしたいのです

私の基本方針は、そんな感じです

今後、【発達な私なりの他者支援】のトピックでは、その具体例を紹介していければと考えています

とはいえ、自分なりの考え方にそれなりの自負はもっていますが、まだまだ経験の浅い身。

発達仲間や支援者の方で、もっといい基本方針をもってらっしゃる方がいましたら、ぜひ教えていただけたら、ありがたいです

それでは今日はこのへんで。