こんばんは
ゴールデンウィーク最終日の夜、いかがお過ごしですか。
私はといいますと。
4月下旬から書けていない日記と家計簿付け、読みかけの小説ほか積ん読状態の本の山、1月から溜めっぱなしの朝の連ドラ、衣替え…
やりたいこと、やっつけたいことはいっぱいありました。
連休中に一つぐらいは片付けられると思っていたのですが、まぁびっくり!
一つも手付かずでした
でも


今夜作ったスペアリブのマーマレード煮が子供たちに大好評だったこと。
実家の母にちょっと早めの母の日のプレゼントと筍の煮物を持って行って喜んでもらえたこと。
義母と二人でカラオケに行きノリノリに楽しんだこと。
長男の体育祭の感動。
二男の柔道他校遠征に同行したこと。
嬉しいこと、楽しいことがいっぱいの連休でした。
ブログではずっと書きたかった 脳ケアセラピスト 山本利恵さん のことを書けましたし。
総じて、いい感じの連休でした

(長男が選んでくれたミルクコーヒー。甘さがちょうどいい
)
今夜は私の父方の祖母のことを書きたいと思います。
明治44年生まれ。
昭和7年婚姻。
昭和43年夫死亡。
昭和53年死亡。
彼女の戸籍の身分事項欄に記載されている四つの記録。
父を含む六男二女を産み、育てた生涯でした。
私の四歳の誕生日。
当時、関西に住んでいた我が家に九州に住む祖母から電話がありました。
「つむぎちゃん、お誕生日おめでとう。
お正月に帰って来るの、楽しみに待ってるからね。」
来春入園する保育園の話を祖母に一生懸命話していた自分を覚えています。
「つむぎちゃんの大阪弁はかわいいね」
祖母の笑った声も。
次の記憶は、両親と近所に住んでいた両親の仲人さんの緊迫した表情。
私と当時二歳の妹は大人たちに着替えさせられ、家族四人で飛行機に乗りました。
私と妹は大泣きして、両親や乗務員の方を困らせていました。
祖母宅に着いて、父の兄弟に迎えられたこと。
土間に転がっていた白い瓜が人の拳のようで怖かったこと。
棺に眠る白装束の祖母。
私の誕生日の翌々日のことでした。
祖母の死亡推定時刻は午前5時。
私に電話をくれたのは夜でしたから、その電話の30数時間後に祖母は最期の時を迎えたことになります。
死因は病死ではありません。
他殺でした。
一人暮らしだった祖母がなぜ殺められなければならなかったのか。
真相は分かりません。
私が大学一年の秋、時効を迎えました。
我が家に当時の担当刑事さんがやって来て
「力及ばず、犯人逮捕に至りませんでした。本当に申し訳ありません。」
そう言われた、その場面に私は立ち会いました。
私の顔を見て刑事さんは言われました。
「あなたは亡くなられたお祖母さんにそっくりですね。」
それは祖母の棺の前でも言われた言葉でした。
「この子は★★さん(祖母)の生き写しだ」
門内なのか遠縁の人なのかがそう言い、回りの大人たちが泣いたのを覚えています。
「★★さんは○○ちゃん(私の父)を一番可愛がってたから」
「○○ちゃんが家を継いでいたら★★さんもこんなことにならなかったのに」
四男の父は、中学卒業後、左官の職に就き、九州を離れていました。
父にとって酷な言葉だったのでしょう。
「母ちゃんが死んだのは俺のせいなのか?
そばにいたお前らに責任はないのか?」
心の底からの慟哭でした。
四歳の私の記憶。
次の年の春。
私が入園したのは、決まっていた大阪の保育園ではなく、九州の保育園でした。
祖母の死で父は兄弟に乞われ、九州に帰ることを決めました。
慣れない土地で、友達のいない保育園に入れられた私と妹。
関西の言葉をからかわれ、保育園が大嫌いで、毎朝泣きながら通っていました。
保育園に慣れた頃、父に異変が現れました。
父と母の争う姿。
母の結婚指輪は何度も質に入れられました。
母に手をひかれ、消費者金融にお金を返しに行きました。
「あんたも苦労するのぉ…」
黒いサングラスをかけたおじさんが母にそう言っていました。
「もう離婚して田舎に帰って来い。○○さんは変わらん。子供のためにもそれが一番いい」
母の兄である伯父は、子供である私の前でも父のことをそう言いました。
私は父が大好きでした。
許せないこと、たくさんありました。
「お父さんらしくしてよ!どうしてお父さんは他のお父さんみたいにしっかりしてくれんと?
どうして?」
たくさん反発し、たくさん泣きました。
でも。
私の「どうして」の先には、私なりの答えがありました。
「お父さんは悪くない。
お父さんはさみしいんだ。
おばあちゃんをあんな形で喪ったから、お父さんの心は壊れたんだ。
だから、お父さんは悪くない。
私が頑張ってお父さんとお母さんをしあわせにすればいいんだ。」
私は典型的なアダルトチルドレンでした。
そんな背景がある私は、異性に確固たる父性を求めました。
そのことで交際相手の方を苦しめたこともあります。(それだけが原因ではなく私自身の弱さに起因していたことも大きいのですが。)
結婚してからも、やはり何かが解消されていなかったと思います。
私の傷は、夫を傷つけ、夫を苦しめました。
夫は…
夫は、私の傷を受けとめてくれた、ただ一人の人です。
夫により、私は救われたのかもしれません。
「こんな私でも愛される」と。
でも。
これは私側の独り善がりな、都合のいい考えだということも分かっています。
…うん。
話が飛び始めたので、軌道修正します。
父への捻れた感情が確かにあったのです。
本当に、つい最近まで。
「執着」という言葉で表されても仕方のない確執でした。
今でも信じられないのですが、やっぱり今年1月16日が、私の運命の1日だったと思います。
山本利恵さんとの出逢い。
「つむぎさん、変なものが見える、変なメガネ、かけてるね」
真っ白で、透明な、言葉でした。
私が自分にかけた、呪いの魔法を、いとも簡単に解いてみせた彼女。
「パッカーーーン
」
本当に、そう、音がしました。
祖母の死から始まった「我が家の不幸」というもの。
私の「悲劇」というもの。
私は神に愛されない人間なのだと思って生きてきました。
「どうせ私は幸せになれない」
ずっと、そう、僻んできました。
利恵さんに、言われるまでは。
自分の嫌な所ならいくらでも言える私に
「つむぎさん。
私はつむぎさんのこと、そんなふうに感じませんよ。
つむぎさんのこと、よく知らない私なので、あくまで私が受けとるつむぎさんの雰囲気ですが。
つむぎさん、全然嫌な人じゃないですよ。」
利恵さんの一言は、私の世界を180°ひっくり返しました。
「私は悪い夢を見ていたのか???」
そう感じた瞬間、私は笑い出したのです。
それまでの自分がおかしくて。
「何を私は一人で頑張ろうとしてきたんだろう。。。」
そして、次に、そんな自分に対する愛情が溢れてきました。
「今までよく頑張ってきたね。
小さい身体で、家族の問題を全面で受け止めようと、本当によく頑張ったね。」

同情や、理解が欲しくて、この記事を書いている訳ではありません。
私の文章力が低くて(構成が苦手なのは自覚してます…)そういうふうに取られる方もおられるとは思いますが。
あくまで、「私の為」の記事です。
私の「告解」です。
不誠実で、不真面目、自己中心的な私。
そんな私を、私は許しました。
それを呑み込んでの、私。
私が、私を許さなければ、誰に許しを乞うのでしょう。
誰が、私を生きるのでしょう。

話が飛びに飛び。。。
もう既に何が本題か分からなくなりました。(担当編集者が欲しい ← 真剣)
祖母の話です。
四月のある日。
私はある山里を車で走っていました。
Facebookで知ったイチゴとスミレのジャムを求めるために。
その山里は、私の実家のある町の一地域ですが、私が初めて訪れる場所でした。
ダムを越えて、自然豊かな細道を気分よく車を走らせていたとき
「あ、ここは。。。」
祖母が生まれ育った地であることに気づきました。
緑が美しく、鳥の囀りが心地よい、空気のきれいな地。
「つむぎちゃん、ここがおばあちゃんが育った場所だよ。
きれいな所でしょう。
おばあちゃん、ここで幸せな子供時代を送ったよ。
つむぎちゃんはおばあちゃんのこと、かわいそうだと思ってる?
おばあちゃんは、幸せだったよ。
おばあちゃんは、おばあちゃんの生を一生懸命生きた。
おばあちゃんのこと、かわいそうなんて思わないで欲しい。
本当におばあちゃんは、幸せだったんだから。
つむぎちゃん、ここに来てくれて、ありがとう。」
祖母の声が聞こえたような気がして。
私は涙が止まるまで、車で泣きじゃくりました。

私が、自分に起こる全てのことは「必然」で「ギフト」だと信じるのは、この理由からです。
この記事によって、傷つけてしまう人。
その人は、私の一番大切な人である夫です。
本当にごめんなさい。
あなたは私が人から変な人間と思われることに心を痛める、本当に優しい人なのに、私はその優しさに甘えて、自分を晒し続けています。
「お前は芸術家ではない!」
本当にその通りだよ。
馬鹿だよね、私。
でもね。
私の中の、小さい私が「書いて」って言ってくれたから。
私はその声を尊重したかった。
笑われてもいい。
変な人って思われてもいい。
みんなに好かれなくていい。
私が私らしくあれば、きっと、中にこんな私を好きになってくれる友達ができる。
あなたも少しずつ、私を認めてきてくれたように。
よしっ!
素敵な時間になったよ。
この時間に投稿だ♪
尻切れトンボごめん!
おやすみなさい。
ゴールデンウィーク最終日の夜、いかがお過ごしですか。
私はといいますと。
4月下旬から書けていない日記と家計簿付け、読みかけの小説ほか積ん読状態の本の山、1月から溜めっぱなしの朝の連ドラ、衣替え…
やりたいこと、やっつけたいことはいっぱいありました。
連休中に一つぐらいは片付けられると思っていたのですが、まぁびっくり!
一つも手付かずでした
でも
今夜作ったスペアリブのマーマレード煮が子供たちに大好評だったこと。
実家の母にちょっと早めの母の日のプレゼントと筍の煮物を持って行って喜んでもらえたこと。
義母と二人でカラオケに行きノリノリに楽しんだこと。
長男の体育祭の感動。
二男の柔道他校遠征に同行したこと。
嬉しいこと、楽しいことがいっぱいの連休でした。
ブログではずっと書きたかった 脳ケアセラピスト 山本利恵さん のことを書けましたし。
総じて、いい感じの連休でした

(長男が選んでくれたミルクコーヒー。甘さがちょうどいい
今夜は私の父方の祖母のことを書きたいと思います。
明治44年生まれ。
昭和7年婚姻。
昭和43年夫死亡。
昭和53年死亡。
彼女の戸籍の身分事項欄に記載されている四つの記録。
父を含む六男二女を産み、育てた生涯でした。
私の四歳の誕生日。
当時、関西に住んでいた我が家に九州に住む祖母から電話がありました。
「つむぎちゃん、お誕生日おめでとう。
お正月に帰って来るの、楽しみに待ってるからね。」
来春入園する保育園の話を祖母に一生懸命話していた自分を覚えています。
「つむぎちゃんの大阪弁はかわいいね」
祖母の笑った声も。
次の記憶は、両親と近所に住んでいた両親の仲人さんの緊迫した表情。
私と当時二歳の妹は大人たちに着替えさせられ、家族四人で飛行機に乗りました。
私と妹は大泣きして、両親や乗務員の方を困らせていました。
祖母宅に着いて、父の兄弟に迎えられたこと。
土間に転がっていた白い瓜が人の拳のようで怖かったこと。
棺に眠る白装束の祖母。
私の誕生日の翌々日のことでした。
祖母の死亡推定時刻は午前5時。
私に電話をくれたのは夜でしたから、その電話の30数時間後に祖母は最期の時を迎えたことになります。
死因は病死ではありません。
他殺でした。
一人暮らしだった祖母がなぜ殺められなければならなかったのか。
真相は分かりません。
私が大学一年の秋、時効を迎えました。
我が家に当時の担当刑事さんがやって来て
「力及ばず、犯人逮捕に至りませんでした。本当に申し訳ありません。」
そう言われた、その場面に私は立ち会いました。
私の顔を見て刑事さんは言われました。
「あなたは亡くなられたお祖母さんにそっくりですね。」
それは祖母の棺の前でも言われた言葉でした。
「この子は★★さん(祖母)の生き写しだ」
門内なのか遠縁の人なのかがそう言い、回りの大人たちが泣いたのを覚えています。
「★★さんは○○ちゃん(私の父)を一番可愛がってたから」
「○○ちゃんが家を継いでいたら★★さんもこんなことにならなかったのに」
四男の父は、中学卒業後、左官の職に就き、九州を離れていました。
父にとって酷な言葉だったのでしょう。
「母ちゃんが死んだのは俺のせいなのか?
そばにいたお前らに責任はないのか?」
心の底からの慟哭でした。
四歳の私の記憶。
次の年の春。
私が入園したのは、決まっていた大阪の保育園ではなく、九州の保育園でした。
祖母の死で父は兄弟に乞われ、九州に帰ることを決めました。
慣れない土地で、友達のいない保育園に入れられた私と妹。
関西の言葉をからかわれ、保育園が大嫌いで、毎朝泣きながら通っていました。
保育園に慣れた頃、父に異変が現れました。
父と母の争う姿。
母の結婚指輪は何度も質に入れられました。
母に手をひかれ、消費者金融にお金を返しに行きました。
「あんたも苦労するのぉ…」
黒いサングラスをかけたおじさんが母にそう言っていました。
「もう離婚して田舎に帰って来い。○○さんは変わらん。子供のためにもそれが一番いい」
母の兄である伯父は、子供である私の前でも父のことをそう言いました。
私は父が大好きでした。
許せないこと、たくさんありました。
「お父さんらしくしてよ!どうしてお父さんは他のお父さんみたいにしっかりしてくれんと?
どうして?」
たくさん反発し、たくさん泣きました。
でも。
私の「どうして」の先には、私なりの答えがありました。
「お父さんは悪くない。
お父さんはさみしいんだ。
おばあちゃんをあんな形で喪ったから、お父さんの心は壊れたんだ。
だから、お父さんは悪くない。
私が頑張ってお父さんとお母さんをしあわせにすればいいんだ。」
私は典型的なアダルトチルドレンでした。
そんな背景がある私は、異性に確固たる父性を求めました。
そのことで交際相手の方を苦しめたこともあります。(それだけが原因ではなく私自身の弱さに起因していたことも大きいのですが。)
結婚してからも、やはり何かが解消されていなかったと思います。
私の傷は、夫を傷つけ、夫を苦しめました。
夫は…
夫は、私の傷を受けとめてくれた、ただ一人の人です。
夫により、私は救われたのかもしれません。
「こんな私でも愛される」と。
でも。
これは私側の独り善がりな、都合のいい考えだということも分かっています。
…うん。
話が飛び始めたので、軌道修正します。
父への捻れた感情が確かにあったのです。
本当に、つい最近まで。
「執着」という言葉で表されても仕方のない確執でした。
今でも信じられないのですが、やっぱり今年1月16日が、私の運命の1日だったと思います。
山本利恵さんとの出逢い。
「つむぎさん、変なものが見える、変なメガネ、かけてるね」
真っ白で、透明な、言葉でした。
私が自分にかけた、呪いの魔法を、いとも簡単に解いてみせた彼女。
「パッカーーーン
本当に、そう、音がしました。
祖母の死から始まった「我が家の不幸」というもの。
私の「悲劇」というもの。
私は神に愛されない人間なのだと思って生きてきました。
「どうせ私は幸せになれない」
ずっと、そう、僻んできました。
利恵さんに、言われるまでは。
自分の嫌な所ならいくらでも言える私に
「つむぎさん。
私はつむぎさんのこと、そんなふうに感じませんよ。
つむぎさんのこと、よく知らない私なので、あくまで私が受けとるつむぎさんの雰囲気ですが。
つむぎさん、全然嫌な人じゃないですよ。」
利恵さんの一言は、私の世界を180°ひっくり返しました。
「私は悪い夢を見ていたのか???」
そう感じた瞬間、私は笑い出したのです。
それまでの自分がおかしくて。
「何を私は一人で頑張ろうとしてきたんだろう。。。」
そして、次に、そんな自分に対する愛情が溢れてきました。
「今までよく頑張ってきたね。
小さい身体で、家族の問題を全面で受け止めようと、本当によく頑張ったね。」

同情や、理解が欲しくて、この記事を書いている訳ではありません。
私の文章力が低くて(構成が苦手なのは自覚してます…)そういうふうに取られる方もおられるとは思いますが。
あくまで、「私の為」の記事です。
私の「告解」です。
不誠実で、不真面目、自己中心的な私。
そんな私を、私は許しました。
それを呑み込んでの、私。
私が、私を許さなければ、誰に許しを乞うのでしょう。
誰が、私を生きるのでしょう。

話が飛びに飛び。。。
もう既に何が本題か分からなくなりました。(担当編集者が欲しい ← 真剣)
祖母の話です。
四月のある日。
私はある山里を車で走っていました。
Facebookで知ったイチゴとスミレのジャムを求めるために。
その山里は、私の実家のある町の一地域ですが、私が初めて訪れる場所でした。
ダムを越えて、自然豊かな細道を気分よく車を走らせていたとき
「あ、ここは。。。」
祖母が生まれ育った地であることに気づきました。
緑が美しく、鳥の囀りが心地よい、空気のきれいな地。
「つむぎちゃん、ここがおばあちゃんが育った場所だよ。
きれいな所でしょう。
おばあちゃん、ここで幸せな子供時代を送ったよ。
つむぎちゃんはおばあちゃんのこと、かわいそうだと思ってる?
おばあちゃんは、幸せだったよ。
おばあちゃんは、おばあちゃんの生を一生懸命生きた。
おばあちゃんのこと、かわいそうなんて思わないで欲しい。
本当におばあちゃんは、幸せだったんだから。
つむぎちゃん、ここに来てくれて、ありがとう。」
祖母の声が聞こえたような気がして。
私は涙が止まるまで、車で泣きじゃくりました。

私が、自分に起こる全てのことは「必然」で「ギフト」だと信じるのは、この理由からです。
この記事によって、傷つけてしまう人。
その人は、私の一番大切な人である夫です。
本当にごめんなさい。
あなたは私が人から変な人間と思われることに心を痛める、本当に優しい人なのに、私はその優しさに甘えて、自分を晒し続けています。
「お前は芸術家ではない!」
本当にその通りだよ。
馬鹿だよね、私。
でもね。
私の中の、小さい私が「書いて」って言ってくれたから。
私はその声を尊重したかった。
笑われてもいい。
変な人って思われてもいい。
みんなに好かれなくていい。
私が私らしくあれば、きっと、中にこんな私を好きになってくれる友達ができる。
あなたも少しずつ、私を認めてきてくれたように。
よしっ!
素敵な時間になったよ。
この時間に投稿だ♪
尻切れトンボごめん!
おやすみなさい。