とうとうその参まできてしまったか・・・御覧の皆様ホント温かなコメントおーきに。
でも!まだまだ続くのだ・・・その十くらいまで・・・ウソ。
ダイスキな銀閣寺を出たときにはすでに日が落ちていた。宿のチェックインがあるため祇園へ・・・
歩きつかれたのか、はしゃぎすぎたのか、宿に着いたときは疲れはてていた。
でも!舞妓ハンが見たい、お座敷遊びがしたい、着物の帯を引っ張って"アレ~"っていうのもやってみたい、
野球拳もしたい!そんなノリで夜の祇園をブラブラ散歩へ・・・
今回は祇園でお泊り。 必ず京都に来ると祇園には寄ってしまうほど、祇園の町並みがスキで、
古き良き日本って感じがなんともよい!結局舞妓ハンには会えず・・・
(絶対にいつか必ず舞妓ハンの着物の帯をアレ~ってやったるぞ!!)
【石塀小路・ねねの道】
石塀小路は花見小路辺りから高台寺へ向かう途中の小さな迷路みたいな石畳の道。
ねねの道は一直線の平坦な石畳の道。正しくは高台寺道といい、ねねの道と呼ぶのは、
秀吉の正妻北政所「ねね」ゆかりの寺、高台寺と園徳院があることからである!とのこと。
夏に来たときは旅館の女将が一斉に打ち水で石畳を湿らせていたっけ!
やっぱ!石畳は濡れていたほうが風情がある。 てか!この寒い冬にも打ち水やってたっけ!
っで!ねねの道を通り向かった先は・・・(楽しみの一つ) 秀吉の妻、ねねが暮らした高台寺。
よく、信長、秀吉、家康のうち誰が好き?ってなると、オイラは断然秀吉なんです!
秀吉好きのオイラにはたまらない高台寺は秀吉の妻、ねねが亡くなるまで暮らしたという!
ねねは、秀吉がまだ若く木下藤吉郎という名のときに結婚しました。
子宝には恵まれなかったものの、秀吉が信長の重臣であったころは滋賀の長浜城、
天下人になってからは大阪城で秀吉を支え続けました。
秀吉の死後、出家し、ここに高台寺を建てることを家康に許され、
58歳から77歳で亡くなるまでここに住みました。
家康に大坂城を落とされたときも、ココ(高台寺)から燃える大坂城を見ていたらしいです。
霊屋内陣の秀吉と北政所(ねね)の木像を写真に撮ることが出来なかったのが残念!
(チャイニーズ観光客がなかなかどいてくれなかったので・・)
【臥龍廊(がりゅうろう)・遺芳庵(いほうあん)】
臥龍廊は開山堂と霊屋(おたまや)を結ぶ階段で龍の背に似ているトコロから付いた名前らしい。
遺芳庵は茶室です! 大きめの丸い窓?がなんかかわいい。
利休居士の意匠による茶席であり、伏見から移築したも。
傘亭は竹が天井に放射状に組まれ、カラカサを開けたように
見えることからその名があり、正式には安閑窟と呼ばれて時雨亭とは土間廊下でつながっている。
ここでも雪が・・・
かやぶき屋根に積もる雪がなんともいえないほど、風情がある。
秀吉、ねねの思い出が詰まった高台寺、当時仲のいい二人の姿が目に浮かんでくるかのようです。
高台寺をあとに、向かった先は大本命の建仁時! 建仁時までは餅!歩きで・・・
そのままスルーして建仁時へ・・・
その四へ・・・続く。
(もー次で終わりです。多分・・・
建仁時がホントにいいんです。
なので、書かせてください・・・。)