「時間」



楽しさを感じるときは、何か夢中になる時


EX) カラオケ、趣味の時間等


は一時間という単位では、短く感じる。



その逆で、辛さを感じる時や他に拘束される時などは


EX) 授業、テスト⇒出題者の期待される答えを書くのは嫌い(本人)


一時間という単位が、長く感じられる。


同じ一時間なのに、長く感じたり、短く感じたりする。


不思議で仕方ない。


好きなことを行えることが、時間的に短いと感じるならば


好きなことの時間は、貴重である。


嫌いなことを行なわなくてはならない


そんな時間は、貴重の逆、ありふれている。


一日を短く感じる時は、楽しさに満ち溢れ


一日を長く感じる時は、苦痛に満ち溢れている。


人生が短いと感じるものは、楽しさで充実しているが


人生が長いと感じるものは、苦しくて仕方ない。


客観的に把握できる時間は、短く感じる時があっても、長く感じる時があっても


一緒である。




「自殺を考える」


自殺とは、


 1、名を残したいが為なのか(目的)=社会に対して強いメッセージを発したいのか


 2、苦しみから逃れるためなのか(手段)


しかし、1を「目的」と解釈するときに、矛盾が生じないだろうか


自殺は社会にメッセージを残すための「手段」に他ならない。


また、2を「手段」と解釈するにも、矛盾が生じる


というのも、人間は「死ぬ」ことが普遍的な真理であるから。


ま、目的でもあるわけだ。




「目的と手段を考える」


目的と手段はとって代わることがないのではなかろうか。


目的も手段も一緒にする、つまりのとこ、弁証法なりけりや。


更なる止揚(アウフヘーゲン)を期待できるだろうか



目的は手段の否定につながらない


ないし


手段は目的の否定につながらない


故に、一つに吸収しなくてはならないのである。


では、どちらに吸収すべきか


全てが全て「手段」であるようにしたら、行き着く先が解らなくなる





「手段の死語化を推進ないし廃絶の試み」


目的を手段のうちに埋没させるのは、意味がないことである。


逆に手段を目的のうちに埋没させてみると、どうだろうか


私は、この考え方に賛同できる。


全てが全て「目的」であるようにする。行き先が見えてくる。


でも、行き先に辿り着くことができない。 (手段を講ずる必要性)


ただ、その手段も目的にしてしまう。




ソクラテスからの試み


そもそも、ソクラテスは教えを説かなかった。


というのも、「知る」ことが目的であったために・・・。(主知主義)


敵対したソフィストは「知る」ことが手段であった。


手段であったがために「相対化」するのである。⇒ 主体的真理であるがゆえに、その人に正しいと思わせることに着目ないし重きを置く


目的であるために「絶対化」するのである。


真理を愛してやまない哲学は、絶対的なものに価値を見出さなくてはならない。


「絶対的なもの」に価値を見出すのが、「目的」でもあり


「哲学」は「絶対的なもの」に価値を見出すのであって


「目的」は「哲学」でもある。


手段に似た科学的考察を主としたプラグマティズムは哲学ではなく


形而上学的な超越的なものに哲学を見出すのである。


絶対的なものは、即ち形而上学的なものでもあると同時に


形而上学的ないし超越した概念というものを、純粋な思考によって認知する


それは、イデア界なのか、絶対的な一者に見出すのかは、プラトンや新プラトン主義が考えたことであるが


アリストテレスは、イデア即ち純粋な思考によって、現れ出る超越的で形而上の世界はあるとしたが


それが、手段として、現象に現れ出ることを、忌み嫌ったのではないだろうかと考える。


それならそれで、全部目的にすればいいなんて考えたものだ。



≪まとめ≫


目的と手段は矛盾するが、お互いを否定するわけではない。


手段は相対化し、哲学と相反するが、目的は絶対化し、哲学そのものになる。


手段に似たプラグマティズムの考え方は哲学ではない。


形而上即ち観察できる範囲内を超越した、思索によって表れるとしたのが、哲学である。


現象界自体がイデアの分有と考えるのは、ある一種の手段であり、アリストテレスがそこを否定した。


現象界にも目的を持たせ「現実主義」を説いた。








今日は雨の日です。


じっと・・・とした感じは嫌いでありますが。


外のにおいが、チョー好き



電車の中の匂いは、チョー嫌い。



なんだかんだいって、内に籠るのでありますが・・・



メンソールの快感がどこか



気持ちいいものがありますね。



「幸福とは何か」



何が幸せなのか。


幸福度というのを計算する必要があるのか。


幸福を求めるのに、価値ないし無価値で決めていいものなのか


それは、量か質か?


ベンサム ミルか。



相対的なものなのか?


皆に共通し、必要不可欠な普遍的な幸福があるのか。


何をもって人は幸福と判断し、何をもって人は快楽とみなすのか。


幸福は快楽なのではないのか?


こういう問いかけを幸福や快楽とみなしていいのだろうか。


どのような状態が幸福といえるのか。


美的か倫理的か宗教的か


キルケゴールや自分の好きな鈴木大拙氏は、どう考えていたかなどなど。



しとしと降る雨の日に考える。



「幸福とは何か?」


それを知ること、知ろうとする心構えが幸福である。


「福徳一致」ソクラテスの考えここに極まり。


主に、「知る」ことによって、一つのまとまった考えが構成される。


それは、「経験主義」、「帰納法」でもあり、「無知の知」という一つの結論から導かれ、展開していく「合理主義」「演繹法」でもある


ソクラテスは、相対的な概念を包括した「人生哲学」を構成した。


よってたかったのが「プラトン」であり「アリストテレス」


彼らはソクラテスの人生から解る両者の一つの部分を単に強調したに過ぎない。






あーだめだきりねーは、この話またそれてしまう。


多く昔の哲学者は、ギリシャを思ったのである。



雨の時、幸福を思う。


幸福は、何かと疑念が生じた時に、知る必要性を知る。


そして、ギリシャを思う。






いつも断片的な哲学を展開する。



この感情にまかせて、哲学が展開するこれを「感情哲学」(エモ・ソフィア)と勝手に名付けることにした。



あったら、ごめんね。 傲慢にならんよう「無知の自覚」は大切である。







私、自身人間を「自転車」に喩えることがある。


本能は「道=下り道」をブレーキ(理性)をかけないまま進んでいくことであり


非常に危ない。


何が危ないかというと、下り道を上る人々と衝突してしまうからである(⇒利害関係)


下り道を上る人々というのは


もともと、下り道をブレーキなしで進んで行った人々である。


なにか衝突するたびに、理性というブレーキをかける。そこで、魂の全面的方向転換


が行われ、道を上り道にする。


小学生でもわかるが、下り道と上り道どっちが大変かというと・・・


上り道である。理性によって進むべき道を改める。


ところで、上った先には頂点があるとしよう。


頂点から見下ろす世界は、全てを見下ろすことができる。


全てを見下ろせることは、全てを知ることができる。


「神のみぞ知る」なんていう言葉は神が全て見下ろせる天上にいるからであって


それ以外にない。


そして、上り道は大変である。こんなもんは、小学生でも知っている。


「量」を重視する=知識を求めることや「質」にこだわる=知恵を身につけることは


上り道と一緒で果てしない坂道に思える。


ところで、下り道はどうであろうか、どんどん下るスピードも上がっていく


知を求める人間関係なく、衝突していく、さながら好んでいる人もいるのではないだろうか。


彼は、力というもの知っている。


力学上こんなもんは、上る人よりも、下る人のほうが強いに決まっている。


私はこれを「本能の知」と呼ぶことにしよう。


ベーコンは「知は力なり」と説いたが、この場合は「力は知なり」に他ならない。


下る先に見えるもの、それはマグマである。


下る最中気づくものである=(「やけに暑いな、引き返そうかな」)


しかし、彼は、下るスピードによって、その暑さを冷やそうとするにである。


マグマは全てを溶かす。


マグマは怨恨に満ち溢れている。


マグマに近づけば近づくほど暑いのであるが


上る最中も暑いのである。そして、時に疲れる。


多くの人が倒れる。


暑さの原因が解らない。


多くの人がこの疑問にぶつかり、解らず苦しんで坂道を上る。


疑う余地なしに、上る人たち、もがき苦しみながら坂道を上る。


デカルトはこの点において、優れた見解を示した。


暑さの原因は、自身にまとわりついている服(キリスト精神)にあることが解る。


そして、真っ裸になった。


「われ思うゆえにわれあり」


疑う余地がない、真実


この時に、坂道が少し緩やかになったのではないだろうか。


いや、変わらず、人間自身がそう感じるようになったのである。


イギリス経験論者は、坂道上る過程において、暑さの原因をまとわりついている服としたが


大陸合理論者は、実際服を脱ぎ捨てて、ありのままの人間を見つめなおした。


対し、ニーチェは、その服のセンスを疑っただけに過ぎない。


挙げ句の果てに、自分が服を作るにいたった。


でもその服が、モード界にあるような、日常生活とかけ離れたものであり


美を追求するために、己自身が変人になってしまったのである。




この坂道に、もしルソーがいたら


理性というブレーキを使って、途中であるけれども


見える風景を見つめなおす。


普通の人間というものは、これぐらいでいいんじゃないか


っていうと思う。



あなたの自転車は、今どちらに向かっていますか。


善い方向に進むもの、悪い方向で進むものそれは、あなたの「自由意志」でっせ


by ピコ=デラ=ミランドラ