わかりやすい
「わかりにくい」よりは「わかりやすい」方がいい。人間も同じなはず。
何が好きで何が嫌いか。
几帳面か大雑把か。
大胆か神経質か。
人の性質は言葉で表すのは難しいけど、ある程度わかっていれば、その人の考え方もなんとなくつかめたりする気がする。
人のすべてを理解するのは無理だけど、歩み寄ることはできると思う。
仲良くなれるかな。
自分と人
まず、人と人が本当の意味でわかりあうことはありえない。
わかり合えてると思っていても、どこかに必ず妥協点があって、
それが許容できるかできないか、軽いか重いかの話。
一時期強く思っていて、今もまだその気持ちは残っているけど、
僕はどんな人とも仲良くしたいし、話を聞きたいし、話を聞いてもらいたい。
でも、人が殺すのが好きで好きでたまらない人に、良くないことだと諭すのはできないだろうし、不倫をしている人に、人の気持ちについて説いても、「お前に何がわかる」と一蹴されると思う。
殺人鬼に共感したフリはできるけど、僕は絶対人は殺せない。
極端な例だけど、そんなもんだと最近気がついた。
相手の考えを尊重して、自分も、自身の考えをしっかりと持つこと。
それぐらいしか僕にできることはない。
僕に、他人の世界の主人公をどうこう言う権利はない。
これがおかしい、あれは変だというのも、結局は主観の話であって、
受け入れるのも、拒むのも、相手次第だということ。
そういうことを考えながら生きています。
嘘と矛盾
有利な立場でいたいがために、都合よく物事を隠したり、偽ったりする。
誰しもが、当たり前のようにそれを繰り返していて、やめ時を見失っているような感じがする。
正直に話すことは、自分の弱さを曝け出すに等しい。社会生活は、虚勢の張り合いなのに、
嘘が大部分を占める自分に、好意を持ってくれる人を見ると心が痛む。
好意的な関係を築きたいから(少なくとも嫌われたくないから)見栄を張っているのに、無意味だなぁと思う。
なるべく正直な気持ちを話す心構えはしているけど、傷つけたり嫌われたりするリスクに対してリターンが少なすぎる。
嘘とうまく付き合っていかなければ、人は生きていけないのだ。
わかっていても認めることができないのは、裏に正直な気持ちを話してほしいという気持ちがあるから。