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2017_9_13

 なんで生きているのかを考えることがよくある。生まれてきてしまったから、と言われればそれまでだけど、生きる以上何かの使命を帯びなければ、モチベーションが保てない。他と同じなら、自分じゃなくていいじゃない。そう思えてしまう。
 
 いなくてもいい存在なら好き勝手やってやろうと、そう意気込んだはいいけど、結局いろいろなしがらみに囚われてうまく動けなくなってしまう。家族や友達、仕事や未来のこと。失ってもいいやという気持ちを持つたびに、その気持ちの何処かに迷いが生じる。
損したくないというのが、生まれ持った性なんだろうなと思う。
せっかく作り上げてきた関係性を壊してしまうのは忍びない。

でも、このまま生きていてもいい未来はないだろうな。
どこかで流れを変えなければ。

印象、視線

 実際に僕に会ったことがある人には共感を得ることができると思うけど、丈夫な人間だと他人から思われることが多い。生粋の根暗であるはずの僕は、たまに明るく振る舞おうとするフシがあって、見た目も相まって、そういうふうに見られてしまうことが多い。
多分、人並み以上に病弱で、一日外に出ずっぱりだと、帰宅して一息ついた瞬間寝てしまう。
豪快ではあるけど、繊細で、恐らく誰にも思われていないけど、内向的だ。
いろんな人から関わってもらえたりして、メリットも多い気がするけど、僕にとって重要なのかはわからない。もうすぐ24周年を迎える人間として情けない話だけど、視線に怯えながら暮らしているので、もう少し楽観的になりたい。

夏が終わって、時間帯によっては徐々に秋らしさが垣間見える。特に夏秋の変わり目で毎年風邪を引くので、体調には気をつけたい。気をつけてね。

最近、というかずっと考え続けていることなんだけど、生きてきている上で何かが物足りないと感じる。
やっぱり表面と内面のギャップが原因なのか。若い人を中心にいろんな人に出会ってきたけど、ひどい言い方をすると、誰と話しているのかさえわからないほど、個人の存在が空虚に感じる。相手から見ても自分はそう見えていたりするのかな。自分のことばかり気にかけてしまうけど、そうはなりたくはないと願ってやまない。
こういう八方美人なところが、ダメなんだよな。

感情のバランス

 感情を表に出すことが恥ずかしい。
そう思うようになってから、10年以上が経つ。
意識的にひょうひょうとした人間になろうとした。
感じていなかったのではなく、抑えていた。

 思い返すと、きっかけはおそらく小学校の頃。
やんちゃなグループの中心にいた同級生に、よくからかわれていた。
怒ったり仕返しをしようとすると、「ムキになるなよ」の一言で、あたかも自分が悪者のように扱われた。

 それがとても悔しくて、学校に行かないことがあったりもした。
そこで「怒っても損だな」と気づいたのが始まり。
 伴って、表に出して喜んだり楽しんだりすることも減った。

 嫌いな人に嫌いだと悟られるのが嫌だったから、誰にでも同じように接することを心がけた。
 嫌いな人の前で楽しむフリをするような度量もなかったので、逆に楽しさ嬉しさを抑え込んだ。
 喜怒哀楽のうち、哀だけが残った。

 一度ついた癖はなかなか取れず、そうして今日まで生きてきた。
とりわけ仲のいい友達同士では、忘れることができたが、それでも完全にはなくならなかった。

 今でも、感情をコントロールができているというよりは、抑え込んでいるという感じがする。
 これまでの経験から、感情を表に出せる人は羨ましくて妬ましいし、和を乱す人は嫌いだ。

 一つの面だけを見て決めつけることはしたくないけど、本当の意味で分別を弁えた「大人」になるには、まだもう少し時間がかかりそうだ。


 あるいはもうなれないのかもしれない。