梅雨入りしてジメジメした日々が続いているが、今日は中日らしく、曇天ながら何とか雨は降らずに持ちました。


今宵、とても久しぶりにお会いする方々を交えて、飲み会に参加。昔話に花を咲かせながらも、皆さん、一様に見据えているのは将来のこと、でとても有意義な時間を過ごせました。この手の飲みの場で、しかし、最終的な結論として出てくるのは常に教育の話で、それは時に幼児・児童教育であり、あるいは、ビジネスの現場での新人教育であり、と様々ではあるのですが、しかし、いずれにせよ、結局は教育の話、という意味ではエッセンスは同じこと。



この意味で、近時、あるブロ友さん(?)のブログ記事を気にしながら読んでいますが、現場、というのは、ご自身のお子さんの教育であったり、あるいは、預かっていらっしゃるお子さんのことだったりする訳ですが、混迷の一端を垣間見るような印象を受けます。



長らく、このブログを読んでらっしゃる方々はもう耳にタコレベルな話ではありますが、私はいわゆる、「バイリンガル教育」なるものを認めていません。原則として、子どもは、どちらになるにせよ、母国語教育の根幹をキッチリと据えるべきであると考えており、二か国語以上の言語を同時に習得しようという、バイリンガル教育は子どもを混乱に陥らせるだけのものであると否定する訳です。



最近、この方の論述で、日本文化の悪しき側面として、「ホンネとタテマエを使い分ける」ことを、御自身のお子さんに倣わせたくないもの、と書かれているので、ここで反論しておきます。



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まず、事実として指摘しておけば、どんな言語でも、どんな文化でも、およそ「大人社会」として成立している社会においては「ホンネとタテマエ」は厳然と区分されています。これは、以前にも指摘した通り、英語、より厳密には米語でも、敬語はちゃんと敬語として存在し、”それなりの教育環境においては”その旨教育されるのであって、特に日本で、中途半端な帰国子女や留学経験者がよくいう、アメリカ・英語には敬語は無い、という誤った言説が罷り通っているいること自体が、いかに本人に学が無いことを物語っているか、ということを証左していると申し上げた通りです。



もちろん、程度の差、はあるでしょう。しかし、それは生活の時間軸で定まることであって、必然的に長時間の時間軸を持たざるを得ない、農耕民族文化では長めのものであって、タテマエが多くなりがちであることは否定は出来ません。しかし、だからといって、大人の大半が、みな、ストレートな物言いでいい、と考えている訳ではないし、そんな社会は社会として成立する筈がないのは自明の事。



人間である以上、好き嫌いの感情は否めず、「みんな仲良く」などというのが机上の空論に過ぎないことも言うまでもありません。しかし、社会生活を送る以上、そうした感情的な好き嫌いをホンネとして尊重するだけでは社会が成立せず、ある程度、それを押し殺したタテマエで付き合うことでしか、しかたがないことであって、それをキチンと子供に教えなくては、どんな文化であれ、マトモな社会人とさせることは出来ないでしょう。