身の回りの「ある」を数えてみたのです。


このタンスは実家のお下がり


このステレオはお父さんのお下がり


このマッサージオイルは彼がくれたもの


このパスケースはOさんがくれたもの


このカーテンは
この前お母さんが新しく縫ってくれたもの


これは友達の結婚式で貰ったもの


このコップは
日本語教室の生徒さんがくれたもの




その他
うちにある漫画や、
時計や、ゴミ箱や、お布団や、
毛布や、ハンガーや、包丁や、
まな板や、たくさんの食器や、
お風呂の蓋や、パソコンを置く台や、
パソコン用の椅子や、
ランチョンマットや、色鉛筆や、
卒業アルバムや、



はるか昔に私の両親が
買ったものばかりだった。


物じゃなくても
性格や、そもそも私の体は、
両親からいただいたものだった。


私の部屋の中は
人から頂いたものでいっぱいだった。




私が所有しているものは、
全て私の力で手に入れたものだと
いつのまにか思いこんでいた。
自惚れていた。



私のものだと思っていたものは
前は誰かのものだった。
もしくは何も無いところから
私のために生まれていた。


母はいう、
「わたしが死んだら
どうせこれ全部あんたのになるんだから」


だとしたら、
「母のもの」ってなんだろう?
「私のもの」ってなんだろう?


今わたしの手元にあるものは、
たった今、
たまたま、私の手元にあるだけ。


明日私の手元からいなくなるものもあれば、
昨日まで私の手元になかったものもある。

「わたしのもの」は、
「『わたしのもの』だと思っているもの」で

実は誰のものでもないんじゃないか?



私のものと
あなたのものと
誰かのものに境界はあるんだろうか。


所有とは何だろう。


全てが誰のものではないとしたら
「わたしのものだ!!」と
握りしめる必要はあるのだろうか。




お金も。
たまたま、今わたしの手元にあるだけ。
見渡せば、どこにでもあるの。


たまたま、今手元にあるのが
「『わたしのお金』だと思っているお金」。




そもそも
「わたしのお金」なんて概念はなくて、
身の回りのものは全て私のものであり、
同時に、全て私のものではない。


そう思えば、
ギュッと握りしめる必要がなくなって
ずいぶん楽になるように思う。



お金だけじゃない。
お金も、子供も、恋人も。
何ひとつ、「わたしのもの」ではないのだ。



握りしめるのはもうやめよう。
今、たまたま、
私のそばにいてくれる事を喜ぼう。