今回の大義なき総選挙が一つの光を生んだ。

支持政党なしという北海道比例ブロックに出た話題の怪しい政党である。

政策がない政党という奇想天外な発想。

それは、多様化した国民のニーズに既成政党が対応できないということから生まれている。

そして、政党政治という間接民主主義の限界を意味しているのだ。

目指すは、市民の手による直接民主主義だろう。そう言えば、かつては直接民主主義を模索する市民団体が活動していた記憶がある。

総論ではなく、個別の政策に対してそれに関わる市民が決めていくということである。

当然、かつて言われたように、愚民ではダメだとか言った妨害が入ると思われる。

しかし、賢人と言われる人たちがやってこの体たらくである。愚民がやったからといって、それほど大きな問題となるとは思えなくなったのではないか?

直接民主主義をかなえるには、それなりの新しいシステムが必要である。しかし、様々な技術的課題は既にクリアーしていると思う。ある程度まとまった資金と有志が集まれば実現可能なレベルではないだろうか。

そして、その成否を握るのが主権者たる国民の意識である。

成功させるために国民が意識しなければならないのは次の二つである。

一つは、実現する政策に対する責任。もう一つは、全ての人を良くするという意思である。

万能な政策はない。どこかが良くなればどこかが悪くなる。良くなったことには責任はないが、悪くなったところには責任がある。そして、その責任を果たす意思が、二つ目の全ての人を良くするという意思である。

今の世の中は、誰かが良くなっても自分に恩恵がない。だから、競争社会になってしまい、人々の間で争いが絶えない。もちろん、それを主導している人たちがいるからそうなる。

そうやって、人々が争い合っているので、国民が持つ主権はバラバラで何の力も持たないのだ。これによって我々は苦しい環境を強いられるのであり、その環境から自分だけは這い上がろうと更に国民同士が競い合う形に追い込まれている。

我々、一人一人では何の力にもなれないが、それが結集されたとき世界を変える力のなるのだ。そのために、これまでの常識を捨てることから始めなければならない。

そして、一番大事な理念が、「みんなを必ず良くする」という意思である。この思いさえ共有出来れば全ては可能になるのだ。

我々を窮地に追いやるのは環境ではない。常に思い込みという常識である。それが証拠に、世にある様々な優れたものは常識の外からやって来ているだろう。我々は常識を煽るものに注意しなければならない。常識に騙されないようにしなければならない。

時代はいつも常識を破ることで進み、その先に今があるのである。

「支持政党なし」という一筋の光が燦然と辺りを照らす光となるのか?それとも、そんなこともあったな~と記憶から遠ざかってしまうのか?全てを決めるのは我々である。