議論の意味については、様々な解釈がある。
しかし、そういう議論を見ていて一つ気づいたことがあるので書いておく。
これも掲示板を見て思ったのだが、白熱する議論というのは、的外れなことが多い。
ひよこを見て、鶏だという人と、これはひよこだ。ということで白熱した議論、まあ、それは感情論になるのだけど、というようになることがある。
それは、個人の考える視点の違いによるのだが、実は、それは、我々が最初から自然に持っているものではない。様々な人たちによって刷り込まれた概念である。実は、それを多くの人は自分古来の概念であると思い込んでいるわけだ。
その他人の思惑同士が衝突することによって、議論が白熱するのだが、その過程で多くの人が傷つくのである。その痛みは何の中といえば、本当は、自分に取り付いた他人の思惑が取れる痛みではないかと思う。
自分に入り込んだ他人と、本当の自分との戦いが議論であると私は思った。誰かの思惑によって作られた自分の居場所が攻められるのである。普通は、必死で守る。自分の居場所がなくなれば、人は辛いからだ。
しかし、もし、それが本当の居場所であれば、恐らく誰も攻めて来れないはずである。何故なら、それは絶対的なものであり、他の進入を寄せ付けない場所であるから。つまり、他人から攻められる場所とは、他人が住んでいる場所でもあるということではないだろうか?
今、自分の居場所がないという人も増えている。やっぱ、他人が用意した場所では居心地が悪いのである。自分の居場所とは自分で用意しなければならない。
自分というものは中々自分では見えないのであるが、それは、他人という鏡が自分を写してくれるから、ある意味、自分を見出せるのかもしれない。だから、傷つくことを恐れて議論から逃げてはいけないと思う。痛んでいるのは本当の自分ではなく、他人から作られた自分であるから・・・