自らの欠点を隠す為に、論理という脚色の世界を作り出したユダヤウイルスは、いずれ滅亡するものと思われる。それが自然の力であり、生きる力であると思うからだ。
しかし、自らの存在意義を保つ為にそこまで必死に頑張った彼等には敬意を表したいと思う。そして、きっと何よりも辛かったのではないかと思うのである。
誰でも経験したことがあると思うが、他人と違うという事は怖いことである。それが、明らかに劣ると思われるようなことであれば尚更である。その恐怖が、それを隠すことによって消えると考えるのは当然であろう。
だから、この世からいじめがなくならないし戦争がなくならないのだ。
しかし、持っている者というものは、自分がそれを持っていることに気付いていないのである。ユダヤ人は、国を持たないことをコンプレックスに思ったであろうが、持っている者は何も考えていない。
つまり、そのこと自体に気付かないのである。日本では「隣の芝生は良く見える」という言葉がある。他人の持っている物については良く見えるのだが、自分の持っている物には気付かないということを示すものだ。
だから、本当はそんなに苦労してまでも自分たちの欠点を隠そうとしなくても良かったのである。
我も人なり、彼も人なり
つまり、人間は皆同じであるということである。ユダヤウイルスが滅亡するという事は、ユダヤ人が悪であるとか不必要になるということでは決してない。
ユダヤ人も日本人も同じであるという事を意味するのである。脚色やメッキと言うものが剥がれた後に残るのは「素」である。素とは、人間そのものであり、楽であり、それは自然であるということだ。
この2000年という歳月を掛けて、我々人類は多くの悲劇や惨劇を通して、このことを学んでいるのだ。もちろん、そのい一部分に生きるそれぞれの人たちには全体は見えないかもしれない。
今を生きる我々でさえ、地獄に向かっているのではないかとさえ思えるのである。しかし、この宇宙に天国も地獄もない。あるのは「あるがまま」という自然である。全てはその原理によって動いているだけである。
どの時代に生まれるかによって、見える世界は全く違うのであるが、それは一瞬を切り取るからに過ぎないからである。一瞬によって振り回されているが、大きな流れは微動だにしないのである。
その落ち着きを取り戻すだけで、全ては見えるし変わるのではないだろうか。少なくとも、「恐れ」というメガネだけは外すべきである。