ユダヤウイルスの根源であるユダヤ教 、及びユダヤ人とは何かと言えば、国を捨てたということである。


例えば、日本に住んでいる人が日本人と呼ばれるのとは対照的に、その存在を証明する後ろ盾を無くしたことを意味するのだ。自然にあるものは、全てその存在を証明することなくそこに存在を認識することが出来るのであるが、ユダヤウイルスはそれがない。


なあ~んだ、そんなことなのか・・・・と言われそうであるが、このことはとてつもなく大きな欠陥であることを意味する。そして、その欠陥を隠す為には、全ての存在に証明を義務付けることが必要になるのではないだろうか。


つまり、存在とは証明しなければ認めないことを常識とすることによって、自分たちの欠点を長所に変えることが出来るのである。そして、それを支えるのが教育であり学問である。後は、教育や学問による恩恵を確かなものにすれば、自動的に全ては処理されるようになるのである。


それは、あたかも自然の摂理のように自動的に当たり前のように拡散し伝染することによって、自分たちの存在は自動的に大きくなる側面を有しているのではないだろうか。国を捨てることによって全てを支配する立場に立ったという全く想像を絶する事態を招いている。


しかし、それは予め想定されたことではないだろう。偶然の産物に過ぎない。もし、意図的であれば当の昔に誰かが気付いたはずである。意図的ではないからこそ、それは自然の流れのように広がったと私は思う。第一、2000年前の彼等に、現代を予見することは我々が2000年後を予見できないのと同じように不可能であると考えるのが妥当だと思う。


そして、この存在の証明という思考は、あるがままとは対極になる。あるがままとは自然を意味するのであり、その後の人類の反自然的行動はそうした思考をベースに起した仕業であると考えることが出来るかもしれない。


人が自然の産物であるということを否定する人は誰もいない。それは真実であるかだ。しかし、存在の証明理論は、その真実から人々を遠ざけるのではないだろうか。遠ざけた結果、今、我々が目にしている世界は、機械の世界である。


人がどんどん殺されていく世界である。それは、かつて自然を破壊した論理と同じように終には、その矛先が自らに及んでいるかのようである。その恐怖に慄きながらも必死にしがみついているのは悲惨としか言えないが、それも存在の証明理論では当然の事なのかもしれない。


存在の証明理論とは、簡単に言えば「脚色理論」である。全ての「素」を隠し、飾り立てることによって意味を成すのであるが、それは当然に幻想に過ぎない。雲であり泡である。決して手に取ることが出来ないものである。だから、人に幸福を与えないのである。


我々は存在を証明されなければならない存在ではない。常にそこにいる現実である。それは、自然の摂理であり当然の事なのである。勉強が出来なれば・・・・仕事をしなければ・・・何かをなさなければ・・・という存在の証明論理に怯えることはないのである。


自然界で、そういう存在は一つもない。そのことに気付けば、全ての道は開かれるのであるが・・・・・