世の中の多くの人は、神のような人間になりたいと思っている。それは、神のように怒ることである。
しかし、神は決して怒らない。神とは常に許す存在である。
キリスト教でも、神は全てを許すと言っているし、仏教でも寛容の精神を謳っているのはそのためである。
しかし、何故、人々は神の怒りというものを考えたかと言えば、彼等が奴隷であったからである。待遇や状況に怒るのは奴隷の性である。
与えられる人生に怒りはつき物なのだ。怒る奴隷からすると、神が怒るのではないかと想像が出来るのである。
それは、億万長者にお金の価値がないのと同じことである。貧しきものにはお金は命より大事になるが、億万長者はそれを感じることが出来ない。
億万長者に対して、金の亡者的な発言をするのは貧乏人である。人は、自分の辞書で全てを語る。しかし、辞書は個々に異なるのである。
常に人は自分が持っている物差しでしか計れないのだ。
そして、世の中には神を気取った怒る存在が実に多いのだ。それは、きっと神ではなく神の顔を持つ奴隷ということになるだろう。
全ては正直である。自らが吐く言動とは、自らを示すものなのだ。もし、あなたが神のような憧れの存在に成りたければ、全てを許すことから始めなければいけない。
もし、人生を奴隷として生きたいならば、怒りまくって生きれば良い。
どちらが幸福な人生かは、いずれ明らかになるだろう。