経済の破綻を目前にして嘆く人は多いし、悲観している人も多いことだろう。しかし、それは新たな社会の始まりであり、間違いなく道楽社会の到来を意味すると私は思ってワクワクしている。


今、終焉を迎えようとしている資本主義は一体何だったのかということを見極めれば、多くの人もその意味を理解できるのではないかと思う。結論から言えば、資本主義とは、生産主義であるということである。


手作りであった生産を機械によって能率を上げ、大量生産を行なう。そのためには、工場建設や技術開発という投資資本が必要である。未開発の時代、物不足の時代には無くてはならない必要なものである。


この100年余りに、我々は沢山の物を開発し作り出してきた。これは、生産主義における資本主義の力である事は誰もが知るところであろう。そして、その生産能力はどんどん上がり、それぞれの生産物において徐々に飽和状態を生み出していく。


絹織物から始まった機械化は、自動車という画期的な移動手段の発明によって更に拡大し、電化製品によって引き継がれていく。そして、コンピュータという機械の頭脳を生み出したわけである。


人が生きていくために必要な基本的なモノと言えば衣食住であり、自動車という移動手段が経済を引っ張ったことはある意味奇跡であろう。しかし、そういうものが資本主義いや生産主義を先導し始めたということは、言い換えれば道楽社会の到来を示唆するものではないだろうかと思えるのである。


当然、一つの道楽で生産主義を支えることなど不可能であり、そのことを今、世界の自動車業界が世の中に示しているのではないだろうか。


そして、飽和するモノ市場において人は何をしたかと言えば、マーケッティングという市場調査である。後年になるとその技術が生産を支配するようになる。単に作れば売れるという時代から、消費者ニーズを調べるという方向に変わっているのだ。


つまり、生産は消費によって支えられるという消費主義に変化したのである。それは一体何を意味するのかといえば、消費さえあれば生産が維持できる社会ということである。それは、当然のことであるが、スタート時点は逆の発想であった。


何故なら、モノがない時代というのは必要なニーズに対応できていないということであり、消費優先ではなく生産優先にならざるを得ないからだ。


資本が支える生産という基盤から全てが成り立つ社会から、消費というものが生産を支える社会という本来あるべき社会が100年のときを経て、その姿を現したということだろう。


しかし、これまで消費を支えたのは、生産による労働対価であるという事実から、人々が抜け出せないことが、この状況を素直に受け入れられない苦しい原状を招いているのである。


生産を支えるのは、何と言ってもユダヤウイルスである。それは、階層社会であり優劣によって成り立つ考え方だ。しかし、消費社会は全く逆である。生産は誰でも出来ないが、消費は誰でも出来るのである。この誰でも出来ることがユダヤウイルスは大嫌いなのである。


多くのユダヤウイルス感染者によって、その呪縛は強固なものとなっており、その呪縛によって全ての悲劇は始まるのである。


人が皆平等であるという人類の夢は、消費によって実現される。そして、この消費社会の到来は、人類が長い間待ち望んでいた理想郷である。後は、ユダヤウイルスさへ退治できれば全てはかなうのである。