新しいカテゴリを追加した。その名も「驚きの新事実」というものだ。現実に起こっている現象を出来る限り素直に捉えていくことによって、我々は真実を目の当たりにすることが出来ると思うのである。
その第一弾は「善は人を殺し、悪は人を生かす」ということである。なんじゃそりゃ~と大ブーイングを受けるような話である。私も、まさかそういう結論になろうとは全く予期せぬことであった。しかし、現実はそうなっているのである。
一般に「悪」とはなんだろうか。一つに盗むことであろう。いわゆる泥棒である。他人のものを盗むことを犯罪として悪の一歩と位置づけている。しかし、よくよく考えてみると我々人間は、盗むことによって生きることが出来るのではないだろうか。
人が生きるためには三つの欲望を満たさなければならない。睡眠、食欲、性欲である。その序列は難しいが、人は食べなければ確実に死ぬのである。食べるという行為は、言い換えると自然界から命を盗むことになる。つまり、人は自然界から命を盗むことによって生きることが出来ているのだ。
では、他人のものを盗むということがどういうことか。それは、食が足りないということではないだろうか。山にいる自然の動物だって、山の食が無くなれば、里に降りてきて畑を荒らすのである。それは、彼等が生きるためにやっていることではないのか。
それを人は悪と呼び、犯罪になる。悪には正義の鉄槌が下されるのである。正義とは、善と同義であり、人を殺す論理である。悪は決して人を殺さない。何故なら、人を殺す必要がないからだ。生きるために盗む必要はあっても、人を殺して食べない限り、人を殺す動機とはならない。
単純に言えば、食が足りれば、人から見える悪は消えるのである。しかし、そうなれば、そのワクチンともいえる善や正義も意味を持たなくなるのだ。それらは、光と影であり、悪が存在することで自らの存在価値を示すことが出来るのではないだろうか。
そして、前回も書いたように、善とは宗教であり、正義とは幕府である。
そして、彼等は自らの存在維持のために「悪」を作り続けなければならない。腹が減ったら盗むという自然の摂理を人間社会における「悪」として見せ続けなければならないのである。しかし、それは難しいことではない。食を満たさなければ良いだけである。
特に、昔は放っておけば食は満ちることはなかった。つまり、何の努力をすることなく自らが生きていけるという立場を保つことが出来たのである。
本来、産業革命以降の技術革新は彼等の脅威となるはずであった。しかし、盗むことを悪とするマジックは、それを成敗する善や正義という存在を教育という洗脳によって霧の中に隠すことに成功している。
そして今起こっている事は、悪を成敗することで成り立つ善や正義が、悪を成敗しきれなくなったという事実である。自らが作り出した「悪」というものを成敗してこそ、善や正義は人々から尊敬され信用されるのである。それが出来なくなった現在、人々は「善」や「正義」というものを疑い始めているのだ。
自分たちが信じ込まされてきた「善」や「正義」が真実なのか。これからも、それらを信じて生きていけるのか。など、蔓延りすぎる「悪」の力に無力な「善」や「正義」に疑いを持ち始めている。
ある者は、それが喪失感となって希望を失い、ある者は、更に悪を極めるかもしれない。ある者は、それでも「善」や「正義」という幻にしがみつこうとしているのかもしれない。
いずれにしても、この数千年という歳月を支配していた人のOSが揺らいでいるのは間違いないのである。ただ、一ついえる事は、このOSが進化した時代と現代は別世界であるということである。
それは、新幹線のレールの上を蒸気機関車で走っているようなことなのだ。別世界であるが故に、OSが揺らぎ始めているのである。何度も言うように、一番いけないのは「恐れ」である。「悪」を怖がると「悪の正体」が見えないのである。
「正義」や「善」は、決して「悪の正体」を語らないし、見せないし、見ようとはしないのである。何故なら、それは「悪」でもなんでもなく、「生」なのだから。もし、それがバレたら天と地がひっくり返るような大騒ぎが起こるのである。当然、「善」と「正義」は跡形も無く消えてしまうだろう・・・・・