早々に結論付けるようなテーマになってしまった。それは、ある意味私の性格的な部分から来るのかもしれない。普通は起承転結という順路で進むべきだろうが、起結というやり方もあっても良いとは思うのである。
カテゴリ的には「人類の未来を考える」にしようか、「お金について」にしようかとか迷ったりもしたのだが、未来社会を提言する一つのコンセプトとして「道楽社会」というものを上げているので、その中で書くことにした。
既に書いていると思うのだが、人が作るものとは人が必要とするものであり、作ったものは必要に応じて盛衰していくものである。では、人がいる限り絶対になくならないものは何なのかという事を考えると、それはニーズであると思う。
必要とするという行為自体は人がいる限り絶対に消える事はない。これが無限であることの根拠となるのである。そして、道楽社会を実現する為には、ニーズそのものを通貨の単位とすることで全ては解決するのではないだろうか。
人が一日に必要とする全てのものが基本となる1ニーズという通貨の単位としたらどうだろう。それは、国から与えられるものではない。もちろん、労働によって得るべきものでもない。生きている全ての人に備わっているものである。
通貨というものは常にその価値基準となるべきものを求めて右往左往してきた。ある時は金であったり、あるときではコメであったり、ある時は土地や建物であったり、そして、ある時は生産量であったりもしているが、ついには信用という目に見えないものへと至ったのである。
つまり、通貨とは人の創造物であり目に見えないものであり、現実にはないものなのである。それに価値というものを着けて動かすことによって成り立っている。しかし、それは全ての人が催眠術にでもかけれられたようにそう思わなければ成立しない。
少しでも疑いが入ると根底から壊れるのである。そして今、全てが根底から壊れようとしており、人々はその壊れる言いようもない恐怖に慄いているのである。
でも、そういう事態に陥りながらも微動だにしていないものが一つだけある。それがニーズである。ということは、本当はそれ自体が通貨としての価値基準となるべきものではないのだろうか、ということを示していると思われるのである。
野球がうまい少年がビバリーヒルズに住めるのも、歌のうまい少女が莫大な富を得るのも、そしてゲーム好きの少年が日本一の金持ちになれるのも、全てはお金がさせているのではない。それは、人々のニーズが通貨という形になって実現しているのである。
巨大なニーズが巨大な富へと繫がる。しかし、それは決して悪いことではない。巨大な川の流れの先に巨大な湖が出来るのと同じように自然の摂理なのである。そして、ニーズとは天からの授かりものであり自然の恵みである。
問題は、それを奴隷として労働しなければ得られないという社会構造システムにあるのではないだろうか。もし、それが新通貨単位として、全ての人に生まれながらに与えられるものだとしたら、いとも簡単に道楽社会は完成するのである。
しかし、それを怠惰といって拒む宗教家と幕府が許さないのだ^^;そして、彼等にコバンザメのようにくっついている取り巻き連中が厄介なのである。でも、彼等は少数であることを忘れてはならない。何と言っても、この世は民主主義である。
宗教家と幕府を田畑に引きずり出すことは大いに可能である。
そして、皆がニーズを発揮しそれを支える社会を構築するシステムを作れば良いのである。労働は労働ではなく当番となるだろう。当番の時間を短くする為に努力を惜しむ人はいないだろう。そうやって、我々は楽しむ人生を手に入れることが出来る。
全ての人が、この世に生まれて良かったと思えるようになるのではないだろうか。それは、森には様々な種類の木々があって森となるように、海には沢山の生き物がいて海となるように、利にかなった自然の生き方であると私は思うのである。
きっと、先人たちもそういう人生を望んだことだろう。そういう人生を生きたくて頑張ってきたに違いない。そして今、我々はそういう人生を生きる社会の扉の前にいるのである。人類創生以来100万年ともいえる長い歳月を経て、夢の扉までたどり着いたのではないだろうか。
私たちには、そういう先人たちの思いを無にしないために、この扉を勇気を持って開けるべきであると私は思う。そうでなければ彼等がかわいそうである。何のために頑張ってきたのか、何のために多くの命を犠牲にしてきたのか意味がなくなるのである。
この扉を開け損ねると、ひょっとしたら二度とこの扉の前には立てないかもしれない。同じチャンスは二度ないのである。つまり、これは未来への責任にもなる。宗教家と幕府に負けてはいけない。