紅白歌合戦を見ていたら、森山直太朗さんの「生きてることが辛いなら 」という歌が流れ、思わず感動してしまいました。
しかし、やはりそこは何故そう思うのかという疑問が頭に残るのです。地球上には様々な生命体がいます。人から見るとその存在理由さえ分からないような生命体が生き続けている。そして、それらの生命体は決して生きることが辛いとは思わない。
そりゃ、当然です。知能や感情がないのだから。と言ってしまえば簡単なのですが、しかし、知能や感情とは、むしろ生きていることや生まれてきたことを更に満足する為にあるのではないでしょうか。
そういう下等生物からすると優れた感情や知性という奴は、諸刃の剣でありとても厄介な存在であると考える人もきっと多いことでしょう。
そう考える人たちが当然の如く、大昔もいたのであり、そういう人たちが宗教や道徳などを考え出している。しかし、そういうものが出来て数千年たった今でも、何ら解決には至らず、殆ど変わっていないというレベルではないかと思えるほどである。
一体何が間違っているのか。それは我々が住む自然界に聞くと答えは出ているのではないだろうか。自然界の掟とは生きることである。しかし、そこには厳しい生存競争があり全ての生き物が生きていけるわけではない。
その厳しさは何処から来るのか。それは限られた食材にある。自らが生きるために栄養を必要とするが、その栄養源の食材には限界があるのである。だから、生命サイクルによって限られた食材を循環させて地球上の命のシステムが完成しているのである。
しかし、そこから生まれた人類だけが、ある食材を獲るだけではなく、作ることに成功したのである。本来は、これによって自然環境にある生存競争はもはや存在しない天国のような社会が築かれなければおかしいのである。
それが、何故痛ましい社会へと変貌するのかといえば、過去の痛ましい歴史の落し物によって現在が壊されるのである。それは、宗教でありモラルであり道徳であり秩序である。そして、それらを支える知性である。
どうすれば限りある食材を分配できるのかというところから全ては始まっている。食材とは命の源である。しかし、今やその食材は少なくとも我が国では溢れている。そういう時代に当たり前のように生活している人々に、食材がない時代に育った人の思いは決して分からない。
とはいえ、この日本でさえ、僅か数十年前は食材に苦慮していたのである。そして、それを経験した人さえ実は数多く存在しているのである。本当は、そういう人たちが気付かねばならないのであるが、悲しいかなそれが出来ない。
何故かといえば、そういう人たちが一番洗脳されている人たちなのである。今で言えば北朝鮮に住んでいた人たちと言えば分かりやすいだろう。北朝鮮の国民を見て違和感を思う日本人は多いが、かつてはあれが日本であったのだ。
日本には宗教はない。だから、モラルや道徳の根底となる思想がないのである。これは、世界でただ一つ日本だけである。だから、国を挙げて戦争するのにとても困ったのである。こういう根底が、世界の国々と根本的に異なる背景である。
今の世の中、生きていることがつらいという状況は何も無いのである。誰もが幻想という言葉を知っているはずだ。辛くないはずの社会を辛く見せるという幻想に惑わされている。それは、欧米から飛んできた宗教と人種の差別に汚染された細菌のようなものである。
その幻想はまもなく壊れるだろう。日に日に音を立てて壊れているのが聞こえるだろうか。本来は怯える必要のない幻想の崩壊であっても、それが幻想だと見えなければ辛い恐怖の崩壊になる。
しかし、そういうときには、偽者は壊れる。メッキははがれるという自然の摂理を思い出して欲しいと思う。我々は自然界に生きる生命体である。しかし、その身に付けた知性と感情のお陰で、厳しい生存競争から唯一免れる事が出来る特殊な生命体である。
それが、全ての真実であり、全ての根幹であり、現実なのである。地球上に存在する生命体の内で唯一、楽に生きれる、そして楽しく生きれる生命体なのである。それを我々は知るべきである。全てはそこから再起動すると私は思う。