人類の進化の過程で人は様々な服を着ている。そして、それは季節や成長に合わせてどんどん変化及び進化を遂げている。原始人の服装と江戸時代の服装と現在を見比べれば一目瞭然だと思う。


人を包むのが衣服であるように、人の環境を築く社会も同じような気がする。


その時代時代の状況にあわせて衣服は変わるし、社会も変わる。子ども時代には子どもにあったサイズがあるように、季節にあった生地やデザインがあるように・・・・


それは人が快適に生きるためにあるものではないだろうか。


それが、いつしか衣服が文化であるという発想が生まれる。どういう理由でどういう目的で作られたか。それを調べ大切にしようという。そして、人はそれを知識と称し、その謂れや素材や縫製技術をたくさん知っている人を偉い人だと思うようになる。


かつて、衣服がなくても人は生きていた。だのに、衣服がないと生きれないと思い込んでしまう。そうなると、逆転現象が起こるのである。衣服を人に合わせるのではなく、人が衣服に合わせるようになるのだ。


例えば、子どもが大きくなり昨日まで着れていた服が着れなくなったことを悲しむ人がこの世にいるだろうか。それは、子どもの成長を感じることであり喜ぶべきことではないだろうか。


しかし、現実は逆である。衣服を大切にするから、成長した子どもが批判される。体に合わない服を着させられるのである。それは、誠に窮屈であり息苦しい。快適とは程遠い生活を余儀なくされるのである。そういう事に違和感を抱く人は増えている。


そういう服は着たくないとダダをこねる人が増えるのはそのためである。しかし、そういうダダをこねる人を病気だとかおかしいだとかいう偉い人たちによって、誰もがそう思うのである。今や何のために衣服を着るのかさえ分からない人が増えている。


本来、政治家とはそういう衣服をデザインする人でなければならないのだが、それは、知識や学問によってデザインできるものではない。デザインする為には、着たい服をイメージできなければならないのである。現状の服に違和感を感じなければ着たい服など想像も出来ないのは言うまでもない。


そして、官僚とは、国民が着る服を縫製する職人である。学識者とは、服の歴史や機能や縫製技術を人よりたくさん知っている人である。そういう人たちに着たい服はない。いくら、国民が窮屈だとわめいてみても、決められた型紙に添って服を作るだけである。


精々考えるのは、縫い目を幾つにするかとか、生地をどうするかとか、ポケットの位置をどうするか程度である。


では、着たい服は誰が作るのか・・・・それは、我々国民である。自分たちのサイズにあった服をデザインできるのは、国民以外にいないのである。誰もが服を選ぶ時何を考えるのか。何を学ぶのか。


いや、そんな難しいことは何も考えないのである。要は着たい服を選ぶだけである。つまり、我々は生きたい社会を選べるのである。それは、決して今しか出来ないことではない。先祖代々そうやってきているのである。


人は常に快適に幸福に生きることを考え、そう行動している。しかし、その歴史が学問を生み出し、衣服を人に合わせるのではなく、衣服に人を合わせなければならない世の中になってしまったことが全ての悲劇の根源である。


誰もが自然に出来ることが出来なくなった。まさか21世紀という優れた社会にそういう事態が訪れようとは、恐らく先人たちから見れば不思議で仕方のないことになるだろう。