今、世界で何が起こっているのか・・・・・これから何が起こるのか、ということに不安を感じている人が多いと思う。


これまで心血を注いできたものが、無残に失われていく時代に感じられ、人々は喪失感に襲われるのかもしれない。そういう中で、人々が求めるのは真実であり、その模索が始まっているのかもしれない。


何が実像で、何が虚像であるかを見極めようとする力が働くのかもしれないが、そうやって力を入れれば入れる程、頑張れば頑張るほど、実は真実は見えなくなるのではないだろうか。


メッキははがれる。嘘は暴かれる。虚像は壊れる。というのが自然の摂理である。つまり、真実とは探すものではなく、向こうからやってくるものではないだろうか。


人々が不安に感じるのは、それ自体が現状が仮想であり、実体のない幻想であるからという証に他ならない。恐らく、そういう不安というものは論理ではない。人が本能として有する生きる力から来るものであると思われる。


何が確かなもので、何が不確かなものなのかということを人は判断する能力を有している。それを論理という形に表すことでより確かにしてきたのは間違いないことであるが、本来、論理というものは後付であり、いかようにも細工が出来るものであり、いかようにも作れるものである。


それは言い換えれば幻想であり仮想であり実体のないものであるということになる。


国家というものがそうであるように、企業もまたそうである。人々は自分たちが作り出した幻想によって支配され、その幻想によって不安に陥るのである。それは自己防衛本能から来るものであり、それこそが本末転倒の根源であるとも言えるかもしれない。


自然というものは、ありのままの実体であり、我々人類もその実体から生まれた実体である。そして、常に我々に起こる様々な現象とは、脚色された幻想を壊すことであると思うのである。メッキははがれ、嘘は暴かれ、実体なきものは壊れる。


人類は、実体なきものを時間と労力を掛けて永遠と築き上げ、自然の摂理によって壊されることによって、それが幻想であることを気付かされるという歴史を繰り返しているのではないだろうか。


起こる現実とは、常に真実を教えてくれる鏡である。それを人は神の仕業と呼び、恐れ慄いている。しかし、成長する人類はいつの日かそのことに気付くのではないかと私は確信している。それが私の自信の源であるような気がする。


不安に慄く人生に嫌気が差すのは時間の問題である。何故なら、それ自体が反自然的な行動であり、利にかなわないことであるからである。肩の力を抜き自然に生きることで人は人として自然と共生できる力を本来有している。


それを阻害する臆病な人たちの学識や論理によって人々は惑わされるに過ぎない。学べば学ぶほど、論理を身に付ければ身に付けるほど人は人として生きれなくなる。その度に、神はそれを教えてくれるのだろうが、そのことに気付かない。


それは、学識や論理が自らを神と思わせる力を持つからに他ならないからであろう。でも、それでは人は幸せになれないのである。その幸せ感こそが人を自然に導き、人を生かすための最終最強パワーであると私は思う。


だから、そのチャンスは全ての人達に平等に与えれている。後は、それに気づくか否かで、人生は決まると思う。それを気付くまでくり返し神は真実を告げてくるのである。