法に抵触、でも…候補者が実名で制度反対訴え という記事が出ていた。
主権が国民にあるということは、当然に罪を犯した人を罰するという権限も国民は担わなければならない。主権者とはそういうものである。
しかし、その責任を「死刑や無期懲役という重大事件を裁くことは心に傷を残す」という理由から拒否する人々がいるのである。そういう人たちに主権を担わせるのはかわいそうだという発想である。
主権はとても強力な権限であると同時に、強大な責任を担う権限でもある。そういう重い責任を普通の国民に負わせるのはかわいそうだという声から、きっと思いやりの民主主義が誕生するのである。そして、主権を放棄する人々は楽になるが、国家の奴隷として生かされることになるのである。
それは、野生動物と家畜の違いと言えば分かりやすいのではないだろうか。
主権は何のために国民が持つかといえば、国民が人として生きるためにである。自分が何のために生まれたのか、何をして生きていくのかを探し、それを為すために主権を持たねばならないのである。しかし、それは容易いことではない。
その荒波を怖がって自ら主権を放棄し家畜となることを望む人がいても不思議ではないのである。しかし、彼等に人としての幸福は訪れないのである。でも、彼等は、人としての幸福すら忘れているから仕方ないのである。
虚飾に囲まれ全てを失っても、それに気付かない。きっと、そういう人たちが人を壊しているのかもしれない。人として壊れた人は、他人を壊しても何も感じないのである。
虚飾に包まれた社会では、そういう人が確実に増える。それは、伝染病みたいに確実に増えている。そして、その境目にいる多くの人たちが一番苦しいのである。
世界を覆う経済危機は、我々人類にどっちの道を選ぶかを迫っているのではないだろうか。人が持つ本来の姿で生きるのか、それとも虚飾に包まれた家畜として生きるのか。それは、主権を自ら握るのか、それとも放棄するのかではないだろうか。
いずれにしても、全ては、我々国民の手にある事は間違いないのである。