自信とは一体なんなのでしょう。


辞書を引くと「自分で自分の能力や価値などを信じること。自分の考え方や行動が正しいと信じて疑わないこと。」(Yahoo!辞書 )とあります。これでは、誰もが自信を持てないのは当たり前だと思います。


私だって、辞書に書いてあるのが自信という事であれば、自信は持てない。恐らく、これが出来るのは、神と呼ばれる人でしかないだろうと思うのです。


私は、自信とは自分を信じることであると思います。そして、自分とは一体何なのかというのがとても大切であり、それは、小学生1年生の自分にあると思っています。


偏見や先入観を持たず、ありのまま(=自然)に振舞えた頃の自分が、本当の自分。小学校に入ると、いや、今では幼稚園からかもしれませんが、全ての人は学校教育という国家ぐるみの洗脳教育に犯されていき、本来、持って産まれた自分というものを見失っていくことになります。


昔の人が、「初心忘るべからず」という言葉を残していますが、人が本来感じる初心と言うものが、その人本来のあるべき姿であると私は思うのです。学校教育で優劣を植えつけられ、その優劣を社会に繁栄させることで、人は本来あるものを全て削ぎ落とされてしまいます。


文明がこれだけ進歩しながらも、まるで戦前のような型にハマった生き方を強いられる。何度も言うように、それは誰にとって都合の良い人間たちかと言えば、国家というものを食い物に生きている人たちにとって必要不可欠な奴隷と言えるでしょう。



こういう中で、一体何を信じていけば良いのか誰もが分からない時代になってきています。自信喪失社会とでも言いましょうか・・・・辞書に書いてあるような自信を持てる人は、恐らく、この世に一人もいないでしょうが、もし、持てたら凄い事だろうというのは誰もが想像できる事である。


こういう絵に書いた餅を見せることで、人々を奴隷的身分に縛り付けることも出来る。これが修身教育→道徳教育の真の目的であります。


人は誰でも、自分の目や耳や鼻や触感を通して全ての事を認識します。あるものをないと思ったりもするし、逆にないものをあると思ったりもする。人には、本来それを見極める能力というものがあるのですが、それを削いでしまう教育によって、全てを奪われることになる。


しかし、前にも書いたように、それを見破るヒントはあります。それが人の感情であります。論理は嘘をつけるが感情は嘘をつけない。もちろん、傍目には感情さえも嘘をつくことが出来ますが、人は自分自身に対して決して嘘をつけないという最後の砦があるのです。


今、自分自身に嘘を付いている人がいるのなら、それは間違いだと思います。人の持つものを否定するとても危険な状態にあると私は思います。そういう人は、恐らく、明日死ぬとしたら大きな後悔を背負うことになるでしょう。


人が持つ感情とは、人の本質を明らかにするものではないでしょうか。そして、その最高峰にあるのが幸福感であろうと思います。不満や不安を抱えているから幸福になれないと思う人が殆どでしょうが、それは間違いです。


嘘をつく論理によって、幸福感というものが細工をされている。本来は、不幸だから不安や不満が募るのです。逆の論理展開によって、幸福感とは満足や安心から醸成させられるという論理を生み出し、人々を不幸に貶めるのが教育であります。


何故なら、人は生まれてきたことこそが幸福であり、その幸福を感じられないというのは本末転倒であると思うからです。幸福という実体のないものにモデルケースを設け、すなわち絵に描いた餅を作り、そう教えることで人々を奴隷化する。


決して食べることの出来ない「絵に描いた餅」は人々を疲れさせ、自信を喪失させる力を持つ危険なものであろうと思います。自信を持てない人たちは、そういう思惑に見事にハマっている。何かを為すから自信を持てるのではない。


自分を通して全てを見るという行為そのものが、既に自信のあるという状況であると言えます。前にも書いたように、目から鱗を落とせば落とすほど、それははっきりと明確に見えてくるものであると思います。一度小学一年生に戻ることで全てが見えるかもしれません。


その時、誰もが自信を取り戻すことになるのかもしれません・・・・


本当は、奴隷解放運動が起きてもおかしく無いのですが、憲法には奴隷的扱いを受ける国民のことを主権者と謳っていますので、奴隷解放運動は決して起こりません。それよりも、奴隷自体にヒエラルキーを設けてあるので、奴隷間での熾烈な競争社会となっている。