人を信じられない世の中を嘆く人がいます。嘆く人ほど人を信じていない。政治家が信じられない。官僚が信じられない。教師が信じられない・・・・・
しかし、人を信じられない世の中は一体誰にとって都合が良いのでしょうか・・・その人たちこそが、人が人を信じなくさせている真犯人ではないかと疑うべきではありませんか。
例えば、政治家信じられない。ということによって日本では、政治に関心を寄せなくなっている。投票者は減り、民主主義は崩壊している。民主主義が崩壊すれということは国民が主権を行使できない。つまりは、一部の人たちによる独裁国家が成立することになる。
人を信じなくさせることは容易い。信じるという行為は人にとってとても重い決断であり、信じるための要件は計り知れないからだ。例えば、仮に信じようと思っても、何か一つでも疑わしいことがあれば、それは成立しない。
人は臆病であり、何よりも自分が傷つくことを恐れる。逆に言えば、傷つけば傷つくほど人を信じれなくなる。これは、ある意味簡単なトリックである。人の弱みに付け込んだ計算されたテクニックとも言えるだろう。
憲法によって、民主主義さえ規定しておけば、国民に権利さえ与えておけば、それを実行できないのは国民自らの責任であるということになる。そして、それを実行するために欠かせない「人を信じる」という行動原則を断てば、民主主義という名目だけを与えながら、国家を自由に支配することが可能になるのである。
そうはいいながら、学校では、人を信じてはいけないとは教えない。もし、そうすれば自らが真犯人であることを証明することになるからである。学校では、人から信じられる人になれと教える。「信」という言葉がいかに大切で重いものかを教えるのである。
それは、教えられるまでもなく、誰もが生きていく中で実感させられることでもある。しかし、どうすればそれが得られるのかは教えない。いや、教師自身がそのことを分からないから教えられないのであろう。
基本的には、嘘をつかず正直に生きることとなるのであろうが、学校自体が嘘の塊である以上、胸を張っていえない現状がある。
そして、基本的には人を信じることが大切であることを教えながら、一方でそれを破壊する原理を動かすのである。それは、誰もが経験することである。
何かと言うと経済原理である。つまり、お金に関る様々な事柄によって、人を裏切らせ、人が信用できないものであることを証明しなければならない。これによって人が人を信じることを完璧に破壊することに成功する。
では、何を信じているかと言えば、「お金」である。様々な裏切りを経験し、たくさん傷ついた挙句、世の中で信じられるものは「お金」だけという結論に辿り着かせるのである。人は誰かに言われることよりも、自らの経験で学ぶことによって得られる結論から来る教訓を大事にする。
それが仕組まれたことであっても、結論を招いたのは自分であり、そこから得た教訓は、人生そのものに匹敵するから、揺ぎ無きものになるのである。こうなると、民主主義は完全に消え失せる。民主主義という事自体が無意味なものになる。
しかし、冷静に考えて頂きたい。「お金」とは、何なのかということを。お金とは価値であり創造物である。それを支えているのは「信用」であり、その根幹を支えているのは、我々国民である。国民がお金を共通の価値として信用するから貨幣経済は成り立つ。
つまり、いかに細工を施そうとも、主権は我々国民の側にあるのである。お金に使われる人生を選び、国家に奴隷のように使われる国民に甘んじるのか。それとも、お金を支配し、国家に君臨する主権者たる国民の権利を全うし、真に人間らしい生き方を選ぶのか。
常に、その選択権は我々国民が持っていることを忘れてはいけないと思う。