この国がこのままで良いと思っている人は少ないと思う。変えなければと思う人が大勢いることを私は肌で感じている。だけど、その道筋が見えないというのが体勢であると考えている。大した力も持たない個人が何も出来ないと思うのは当然である。


そこで、もし自分が国家元首であったら、絶対君主であったらという前提の基、どうすれば国を国民を思い通りに操れるのか。という視点で考えてみることにする。逆転の発想である。


そのヒントは当然歴史の中に埋まっている。普通に考えれば強大な力によって制圧することを想像する。もし、自分に強大な力があれば有無も言わせず封じ込む。そういう君主は数多く存在しているが、彼等はどうなったであろう。


概ね強大な反対勢力を生み、滅ぼされるはめになる。つまり、力によって制圧するものは力によって滅ぼされるのである。更に言えば、力で封じ込めようとすると膨大な時間と労力を必要とする。戦前の日本を見ればそれは分かる。


人々が邪心を抱かないように反抗心を表面化させないように常日頃監視体制を強力配備する必要がある。それは、権力者にとって枕を高くして寝れない状況を作り、権力者自らも相当に疲れ果てるのである。


更に言えば、そういう体勢を維持するのには膨大な資金も必要となる。そうなると権力者自らが贅沢三昧するのは到底無理な状況になる。それでは何のための支配なのかとなるのではないだろうか。


では、どうすれば良いのか。それは今の日本を見れば答えが出ている。支配する相手に諦めさせれば良いのである。どうすれば人は諦めるのか。


一ついえる事は、団結を阻むことである。では、どうすれば人々の団結を阻むことが出来るのだろう。いや、どういう状況が人々を団結させるのかと言えば、立場が揃うと人は徒党を組むという性質がある。それは立場が揃うと共感が生まれるからであると思う。


人は知性で動くのではなく感情で動く生き物である。しかし、感情で動くことを愚かと思わせれば更に共感を弱めることになるであろう。


立場を揃えないとは人々を階層構造に振り分ければよい。それは教育によって自然に生まれる。何かを教えれば自ずと優劣というものが発生し、優越感と劣等感という感情を醸成することが出来るのである。しかし、ただそれだけでは階層構造を自ら作る原動力にはならない。


その優劣が人生にとって大きな差異を生み出さなければ、致命傷とはならないのである。勉強が出来るものが人より優れた生活を営める仕組みがあれば、優劣は人を階層構造に分断し団結を阻む力となる。


しかし、それだけでは貧しき者たちが暴動を起こすという危機感も残る。そこで、今ひとつ必要なのは、メンタリティの階層である。一般には宗教であり、日本では道徳教育となる。学問も優劣を生み出すが徳も優劣の要素となる。


正しき行いというスローガンの下、人々は神に近づこうと必死に自らの邪悪と戦い、自らの悪心を殺すことを競い、その達成感によって勝手に階層構造を構成していくのである。日本には恥の精神というものがある。外国にも他人にバカにされたくないと思う精神はある。


経済的な階層構造と精神的な階層構造という二つの階層によって、人々は見事に分断され個人の力は無力化するのである。一番大事な事は、これらの二つは維持管理が必要ないということである。種を蒔いて置くと勝手に成長し身をつける。


つまり、手間の掛からない国民管理ツールとなるのである。国を思い通りに操るというのは、国家元首の思い通りに操ろうとするのではなく、操るべき対象すなわち国民にそのことを気付かせないというのが一番の方策であると思うのである。


この国を変えたいと自由に思わせ、変えるのは無理だと自由に思わせることによって、何かを強大な権力によって制圧することなく、楽に統治できるのである。枕を高くして眠れ酒池肉林を貪る事が出来る真の支配者となることが出来るのである。


この戦略は見事だと私は思う。一体誰の差し金なのか。日本でそれを最初に気付いたのは徳川家康であると思っている。