今終焉を迎えつつある資本主義を支えた精神は、プロテスタンティズムであるといった社会学者がいました。日本では馴染みの薄い宗教的概念がこれまでも大きな原動力となり、今現在も脈々と息づいています。欧米にもある「勤労は美徳」という発想。そして、日本にもある「働くざる者は食うべからず」という発想。
宗教的意味合いは日本人として分からないので割愛しますが、日本における働かざる者については、理解できます。これは、美徳でも何でもなく単なる実体であったということです。今のように機械化されていない時代は、人は重要な労働元であり、農家にしても職人の家にしても、商人の家にしても、生業を行なう上で家族を構成する人々の担う役割は欠かせないものでありました。
ただ、産業革命以降の機械化によって人の労力は省力化が進み、働かざる者・・・については実体ではなくなってきたのではないでしょうか。一つの機械が十人分の労力を担えば、本来9割の人は遊んで暮らせることになる。
しかし、勤労は美徳とか働かざる者・・・という考え方は、9人を遊ばせることをしなかった。9人は次なる労働へと進み新しい産業の発展に寄与していくことになります。そこでも機械化によって余剰する労力は次なる産業へと進み、それが連鎖的に広がり輝かしい発展を遂げることになったわけです。
しかし、それぞれがそのくり返しを無限に出来れば何の問題も起こりませんが、余剰人員を吸収するセクターがなければ失業者を増やし発展を終焉にと向かわせることになる。私は、今世界が聞きに瀕している本当の問題はこれであると思います。
つまり、勤労は美徳とか働かざる者食うべからずという考え方から導き出される結論を突きつけられている。しかし、これらのことは本来何を意味しているのでしょうか。人が生きていくための術の一つであることは間違いありません。
その一つの術について変化を促されていると取るべきであると私は考えています。この術の背景に根ざしているのがお金という一つの価値基準であり、それは人の時間と労力の結集であるものと考えています。
人が勤労を美徳と感じなくなると大変なことになる。という昔の人が感じた危機感に現代人が未だに支配されているというのが事態を解決しない根本的な理由であると私は思うのです。こういう危機感を持っていた時代の人たちは、車も飛行機も洗濯機も冷蔵庫もパソコンも携帯電話も知りません。
こうした様々な技術革新が人の労力を節約してくれたのに、人々はその恩恵に預かるどころか、昔の人たちより長時間労働を強いられる状況に甘んじる結果となっています。それが、常識だから逆らえないのか、それともそれが真理だから逆らえないのか、私には分かりません。
ただ、こうした様々な文明の利器を考えた人たちからすると不思議で仕方ないのではないかと思うのです。人は何のために頑張るのかといえば、それは楽をしたいからなのではないでしょうか。今頑張っている人たちは、未来の子孫に向けて貢献したいと思っている人たちではないかと思います。
昔はお金(貨幣)を作るのも大変な時間と労力を使いました。価値を定めるのに希少な金を基準としたり、それを採掘する為に人生を賭ける必要もあった。しかし、今はパソコンに向かって数字を入力するだけで事足りる時代になっています。
常に時代は前にしか進みません。だけど、学問という名の縛りが過去を引きずり出してきます。それに縛られると結局は過去と同じ過ちを犯すことになる。何故なら、過去と現在では状況が全く異なるからではないでしょうか。
世の中を支配している人たちは、現在を享受できている人ではない。むしろ、昔の感覚から抜け出せない人々であり、新幹線をSLで引っ張ろうとしている人たちではないのでしょうか。ちゃんちゃら滑稽な話であると私は思います。
恐らく、事態も滑稽な事態であるといって間違いないことでしょう。そのことに誰が気付くのか・・・・・それが未来を決める鍵になろうかと思うのですが・・・・・