昨夜は娘が短大に合格した日であった。


それが理由かは分からないが、夕食時の話題は日本の教育問題となった。


高校三年生の娘と議論することは日常茶飯事であるが、特に政治や教育問題が中心となる。我が家では普通の光景であるが、世間一般では少し変わった光景と言えるかもしれない。もちろん、そういう堅い話ばかりしているわけではないが・・・・


話していて気付いたのであるが、日本の教育制度において、大学だけが異質である。小中高と校則やカリキュラムによって人を枠にはめようとする矯正教育が行なわれる。全ての物事は、その枠の中でしか評価されない。


しかし、大学に入ると一変し、殆どと言ってよいほど枠が外されるのである。これに戸惑う学生たちは多いのではないだろうか。例えば、授業を取る取らない、出席するしないは本人の意思によって決めることが出来る。


点数も優を取る必要はなく、可を取れば単位が与えられ卒業できるのである。今振り返ると、この制度に私は30年前に大いに困惑し、道を踏み外したのである。いや、正確に言えば、引かれていた線路がいきなりなくなり、道のない原野に放り出されたのである。


この真逆とも言える世界の変化に対応できる人がどれくらいいるのか分からないが、対応できない人はとても苦しむことになるだろう。そういう経験を踏まえて考えたのだが、教育とは自ら学ぶことであるという前提に立つと、小学校の高学年くらいからは、大学のようなシステムに転換すべきではないかと思う。


勉強は苦痛なイメージがあるが、学問とは本来楽しいものであるべきである。それは、今まで知らなかったことを知ることであり、魅力的であって然るべきであると考える。それを苦痛にする教育ほど無意味なものはない。


小学校の低学年で、基本的な国語力と算数を教えれば、国民としての要素は成立するのではないだろうか。読み書きそろばんが出来れば生きていけるというのは今も昔も変わらないように思う。


そこから先は、個人の使命である。何に興味を持つのか、何を学びたいと思うのかはきっと神が与えた使命と言えるだろう。そして、これは娘が力説していたのだが、人間社会で一番大事なコミュニケーション能力を育成するということが必要だと思う。


他人に自分の考えや思いを伝えることや、逆に他人の考えや思いを知ること。人間社会はここからスタートしなければ様々な誤解が生じ、相互の信頼は成立しない。社会を健全に保つ為には、人間相互間の関係を健全に保つことが何よりも優先されなければならないだろう。


こうした教育が行なわれれば、学習指導要領に掲げる「自ら学び考え行動する」という、本来人間が持つ基本的な要素が育まれると思う。そうした根底によって民主主義は確立され、全ての人が幸福を目指せる環境になると思うのである。


それを阻んでいるのは、横並びという発想であると思う。安直な人々が、同じ立場でないと協調できないという発想から、人々を同じように教育しようとする。しかし、そこに争いが生じ、僻みや憎しみが生まれることを彼等は知らない。


決して同じになれない人を同じにしようとする教育の発想が、全ての元凶である事は言うまでもないだろう。しかし、それを望む国民性がそこにあるのを忘れてはいけないかもしれない。他人と違うことを恐れる国民がそれを擁護している。


でも、それによって何を得何を失ったかを冷静に考えれば答えは出ると思う。全ては、主権者たる一人一人の国民の手にある問題である。今、全ての国民に求められているのは、自ら学び考え行動するという人として当たり前の事ではないだろうか・・・・